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葛西祝によるアニメーションについてのテキスト

ニコニコ動画はなぜフィクションでネットの悪意のクリシェに君臨しているのか

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あそこまで運営の低迷が語られるにもかかわらず、まだまだ「インターネットの匿名の悪意」を一発で表現するクリシェ(紋切り型にされたあげく本来の意味を失う意)としてニコニコ動画の存在は大きいです。湯浅監督の「デビルマン」などなど、まだまだ日本語ネットの悪意を表出する表現として君臨しています。

すでに英語圏から各種のSNSが使用されている昨今、ネットの悪意をひとつのメディアのみで表現するのは無理があるかもしれません。が、現在のtwitterinstagramや、同じ動画サイトであるyoutube vimeoなどなどの優れたデザイン性やUIと比べると、ニコニコ動画の俗悪さは群を抜いています。

何より俗悪なのは、やはりコメントがそのまま映像にスクロールするというデザインですね。あれは観客が映像を視覚的に汚すことを公式が許しているということです。

おまけにコメントのフォントサイズを変えたり、カラーもつけられたりと用意されている。映像を汚してでも一緒に見てる観客との共有を取る、ネタにして面白がるのを取った。いま様々な動画メディアが出ている中、映像を汚すことを公式で許し、むしろ特徴とさえしているほとんど唯一のメディアなんです。

しかしあらためて考えてみると、ほぼ匿名の観客によるによるノイズというのを恒常的によしとしているメディアは他にあるだろうか?視覚メディアや聴覚メディアなどを振り返って考えてみましたよ。

映像に全くの他人が文字を乗せることがどれだけ冒涜的なことなのか

あらためて、映像が他人によって言葉を乗せられるというのは映像を作る側にとってどれだけ冒涜的なことであるのか?

昔ドキュメンタリー番組「NONFIX」で制作していた森達也さんの言葉だったと思うんですが、地震速報で字幕が画面に乗ってしまうと「ちくしょう!」と思ったそうです。ドキュメンタリーと言われると、映像というより言葉の要素で見てしまうところはありますよね。

でも作家側はそうではないんです。映像を見せたいんです。それを他人の、作品内容と無関係な情報で汚されるというのはたまらないんですよ。事実、ニコニコ動画で配信するアニメでもレターボックス化して下段にコメントを流してる作品がありますよね。

もっと遡れば、映画に字幕が乗せられるということすら映像に対する冒涜だと感じる作家もいたかもしれません。ただ、映画における字幕はもはや映画100年の歴史のなかで当たり前になりましたから、それが許せないと感じる映画作家はまだ少ないのでは、とも思います。

さて、聴覚メディアではどうなんでしょうか。

例えば音楽でのライブ。客席からのコールや掛け合いというのはあれはどうだろうか。でもあれはライブでのアーティストと観客とで盛り上げているということだし、ニコニコ動画でいったら映像側が「ここでコメントをくれ」みたいなものかも。ライブでのコールが自然発生的なものもあるし、観客のコール自体もライブで音楽を盛り上げる一要素でもあるといえる。もちろん、観客のコールを演奏に対する冒涜と感じる作家的な音楽家もいるでしょう。

スポーツでの応援や野次はどうか。数年前に奉納相撲を見に行った時に白鵬にずーっとひどい野次を飛ばしている人がいて本当にうっとおしかったが、その野次が取り組みを破壊してしまうということはない。しかし一方では朝青龍のモノマネをしながら煽るという独特の野次の技術を発揮させていたりと、ニコニコ動画でAAを作ったりするある種の職人はそうした応援や野次に似ています。しかし、大きな違いは映像そのものに乗っかってくることですよね。野次を飛ばすどあほうが白鵬稀勢の里の間に乱入するなんてことはないですけど、映像に乱入するニコニコのコメントはそれですからね。

ライブメディアという意味ではニコニコ動画は視覚メディアで他のユーザーとライブで盛り上がるような感覚を、生放送はもちろん録画再生メディアであるにもかかわらず実現している部分で大変に優れている。これはtwichやUstでライブ中にコメント欄に感想を残していく盛り上がり方とも違う。録画であってもライブ感を得ることができる凄いデザインともいえる。

しかし映像そのものを大事にしたい側からすれば、メインをつぶしてでも側の盛り上がりを取るのか?という話でもある。ユーザー側がネタとして消費するのを取るのか?という。ライブ感があるままに、メインをネタとして汚していく道具がここまでそろっているのってやっぱりあんまりないんですよ。映像を作る側にとっての悪意とカウントされる要素がここまで揃っていることって、やはり思いつかないんです。

いまのところの結論としては、ニコニコ動画があそこまで歌い手とか盛り上がったにもかかわらず、結局デファクトスタンダードにはなれず、ドワンゴの社風やそもそもの動画サイトとしての質の低さなどが加味され、きわめて日本語圏のローカルな感じを捨てきれなかった点、そして映像を客がいくらでも汚すことを許している動画サイトということで、映像を作る側にとっては複数の意味で冒涜的な行動を取る日本語インターネットを映像として象徴しやすいのかもしれません。

「いまだにネットの悪意にニコニコ動画って…」とうんざりする現在、むしろニコニコ動画とはインターネット以降の映像にとって何だったのか、がむしろはっきりと見えて来ているのではないでしょうか。

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そしてちらっと記事の評判を眺めたら「批評的思考」とか「積極的関与」とかいうプロフィールのすべて逆を行くごみくずのようなひとが悲惨極まる発言を残しており、日本語教育というものにも思いを馳せたのでした…観た動画は忘れましょう。でももうすこし使いやすいUIを希望しつつ、次回にお会いしましょう。