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葛西祝によるアニメーションについてのテキスト

【これアニメ化しないんだ?】 『ホムンクルス』『殺し屋1』の山本英夫と『覚悟のススメ』『シグルイ』の山口貴由作品

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【「これアニメ化しないんだ?」とは80年代や90年代の作品がアニメ化され続けるもどかしさに対する、ささやかな抵抗のシリーズです】

社会の提示する価値観が、心や身体にフィットすることのない違和感。その前提から発生するグロテスクな暴力や自己破壊。自らの身体と精神が確かだと感じられない物語……。

ここのところ『殺し屋1』、『ホムンクルス』の山本英夫と『覚悟のススメ』、『シグルイ』の山口貴由たちの作品群ばかり読んでいます。

僕は好きな作品を読みながら、よくネットで批評も読むのですが、驚くのはふたりを比較した論考が見当たらないことでした。わずかに『殺し屋1』が『シグルイ』に影響している、という評が見られるくらいで、表立って言及されたものは見つかりません。

一見、ふたりが描くモチーフは “現代の暗部”に “特撮や時代劇、SF”と分かれ、作風は重なり合わないように思えます。ですが30年以上に及ぶ漫画家のキャリアで、描き続けている本質は近いのではないでしょうか?

いわゆる作家としての一貫性が近い。グロテスクな描写の奥で、社会と自己が折り合わない今日的な感覚を掘り下げている。一度はOVAWOWOWなどでアニメ化を実現している両者の共通点を振り返り、「いま、これアニメ化しないんだ?」と思うふたりの作品について語っていきましょう。

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ふたりとも名前が縦書きでシンメトリー。ふたりとも格闘技趣味や経験がある。板垣恵介に敬意を持たれている。ささいな共通点も多いのですが、まずは代表作からテーマが繋がるところを上げたほうがいいでしょう。

たとえば2003年の同時期に連載を開始した、山本英夫の『ホムンクルス』と山口貴由の『シグルイ』は、まったく似ていないように思えるでしょう。ホームレスになる現代劇と天下泰平の時代劇。トレパネーションによる人体改造と駿河城御前試合の決闘。両者は遠く見えます。

もう少し読み進めてみましょう。頭蓋骨に穴をあけたり、腹部を切り裂き、内臓を露出させたりする登場人物たちが立つ場所には、彼らの精神を削ってゆく社会の存在がある。グロテスクな表現が発露する背景には、社会と個人の価値の深刻なずれがある。

なので描く時代こそ違っていても、現代的な手触りがあるのです。『ホムンクルス』の名越が地位を捨て、ホームレスに身をやつし、穿頭するに至ったのは、表面上の社会的成功が自分自身をなにも定義していなかったからですし、『シグルイ』にて藤木と伊良子の闘いを遠くまで俯瞰してみれば、何度も評されているように封建社会で自らを殺すことが背景にある。

両者は過激な描写を重ねる、異常な人体改造や残酷な時代劇にも関わらず、今日の物語と感じられる。それは社会背景のなかで自己像が軋むことが前提にあるからだと考えています。普通の日常とあまりに遠い描写が続きますが、読み進めるうちに、実はこの感覚は背中合わせにあるのだと気づいてゆくのですね。

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ふたりの “社会でよいとされる価値”への疑いも近いです。山本英夫のぞき屋』、『新のぞき屋』は人々の表向きの姿をピーピングによって陰湿な精神を暴き立てる物語ですし、『覚悟のススメ』の戦術鬼たち(どうも日本のロックミュージシャンがモデルだとか)や『悟空道』のはじめに現れる敵は “自由、平等、博愛”を口にし、主人公たちにすべて頭を叩き割られます。

また、とても男性的なモチーフを取り上げながら、ジェンダーアイデンティテイが揺らぐ展開も似てると思いますね。

山本作品で『殺し屋1』のイチと垣原が、痛みや絶望を持って惹かれ合うまでの展開や、『ホムンクルス』で自らのジェンダーを捉えあぐねている大学生・伊藤のほか、さかのぼれば『おカマ白書』の段階から(当時のゲイセクシュアルの荒い認識がありながらも)自己像の揺らぎとして女装も描かれてきました。山口作品で『覚悟のススメ』で男性から女性の肉体へ変わる最大の敵・散との闘いから『シグルイ』の鍛え上げた肉体を艶めかしく描写する手付きがあります。

ふたりともヘテロセクシャルなんでしょうけど、作中でジェンダーアイデンティテイが揺らぐ描写は、ここまでに書いたように社会と自己の相容れなさを描くことの延長として選んでいるのではないでしょうか。

現在もふたりの作家性はいまだに掘り下げれられている最中だと思いますね。山本英夫作品は、余命わずかの男が魂を動物に移し替えていく短編『さよなら身体』から、肉体から意識が電気信号として乖離してしまう『HIKARI-MAN』など、自分の意識と肉体が一致しない人間を描くようになっています。

山口貴由作品はスペリオールでスタートした最新作『劇光仮面』は、特撮を題材にしながらもアイデンティテイが空虚だという主人公が、第二次世界大戦時の記憶を引き継ぐ特撮美術を通して “正義の味方”になろうとするサイコホラーじみた手触りを見せています。『覚悟のススメ』で大日本帝国陸軍731部隊をモデルとした敵が最大の悪でありながら主人公の戦闘技術の源泉でもある、という物語の構図を引き継ぐ形のように(今のところは)見えています。

アニメ化はこのクリエイターがやったらいいんじゃない

『A KITE』や『MEZZO FORTE』の梅津泰臣さんはどうでしょう。山本英夫山口貴由作品の中核には、間違いなく肉体の描写があると思います。しかも、主人公が自身の肉体と精神の同一性について揺らいでいる不安定な状態でもある。

アニメーターは多様な動きを描く一方、『北斗の拳』や『聖マッスル』みたいに数多くの漫画家が描くような、鍛え上げた強烈な肉体の誇示を描く描き手が少ないように思えます。

ただ理由もわかっていて、漫画は止まったページの中でインパクトを与えるために肉体への描写を強められるけど、アニメはもちろん動かすことが基本なので、アニメーター単体のテーマに強力な肉体そのものに注視することは少ないのではないでしょうか。(板垣恵介が肉体を描くとき、“動ける肉体”ではなく、止まって強靭な肉体を見せるボディビルディングを参照したのも、そうした帰結でしょう)

そんななか、梅津泰臣さんはどこか肉体と自己像の曖昧な感覚がアニメートに現れているようにも思える希少な作家ではないかな、と思えるのでした。ただ男性を描くモチベーションは薄そうで、すでに高齢になっているため山本・山口作品をアニメで描いてほしいという望みは叶わないでしょうか……。

余談・漫画やアニメで強靭な肉体を描くことは、どこまで絵として解釈されるのか?

ちなみに、がっちりアカデミックな修練を積んだ漫画家さんって、アクションある漫画でもあんまり肉体を誇示する絵って描かないなーと思います。この前『無限の住人』を見たら、男性陣はみんな身体は薄めなんですよ。

たぶん鍛え上げられた身体というものが、実は漫画として記号的に表現しやすいものだからかもな、と考えています。肉体を強烈に描写した漫画って、絵として強いように見えるんですけど、実は記号に近いです。極論すれば手塚治虫漫画から『ドラえもん』みたいなものかもしれません。

その記号によってなにを描くかと言うと、主人公の内面を表現してることも少なくないんですよ。意外と絵というより文芸としての意味に収斂されるかもしれません。それは今回の山本&山口漫画の裏のお話でもあります。

ともあれ『殺し屋1』か『覚悟のススメ』、『シグルイ』の再アニメ化くらいはありえそうな気もします。ただ実現したとき、肉体をアニメで描くことの誤差をどれだけ埋められるのでしょうか。

また忘れられるためのアニメが生まれ出ます。培った技術やモードが引き継がれるのを眺め、次回にお会いしましょう。