新作アニメと言えば人気漫画のアニメ化!ラノベのアニメ化!それどころか過去の名作の再アニメ化!ふざけるなよ!アニメ業界の志はどうした!もういい!オレが本物のオリジナルアニメを作る!膠着した時代を…闇に光を差し込むように…切り開く!
か、どうかはわかりませんが、『月がきれい』は気合入りすぎ。入り過ぎているがゆえに、いま商業アニメを大真面目につくることの限界を示しています。
中学3年生の淡い少年少女の恋愛劇。舞い散る桜。抒情的な劇伴と少々のモノローグ。観たことある気がします。
パステルなカラーリング。真っ白なハイライト。シンプルなキャラデザイン。観たことある気がします。
でも、観たことがある気がしてもまだいい。問題は、「いまアニメを大真面目に作ること」の完成系が新海誠やスタジオコロリド*1になってしまっているということが言いたいだけではなく、作品テーマが他人との距離をどうにかする、というのが頻発しています。
なんででしょうか?新海誠がそうですし、山田尚子の「聲の形」もそうですし。「君の名は。」も「聲の形」もよかったんですが、悪く言っちゃうと辛気臭いテーマですよね。それだけではなく、もっとわるい意味もあります。
悪い意味での、アニメの作家指向がもたらす❝邦画化❞
他人との距離間がどうの、をテーマにして抒情的に行くのを優先するっていうのはこれって学生から作家性を志す監督がやりがちな、現代の邦画が陥っているだめな点です。「この世界の片隅に」も含む2016年の劇場版長編アニメの成功をふりかえると、じつは日本映画黄金期へのトラディショナル志向や作家性志向でだめになる邦画みたいな要素で充満していたともいえます。それらが成功してしまったことで、逆に「アニメで作家性を志向することの完成系は、これでいいんだ」ってなったら怖いです。だめな邦画になることが正解に思われるみたいな。
岩井俊二のクローンみたいな映画学生ってものすごくいると思いますし、現に新海誠も「聲の形」も岩井の影響だと言及したのをいくつか見受けました。岩井俊二の代表作「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」までもがアニメ化するいま、アニメを大真面目に作るということが、岩井俊二の二番煎じのような邦画になることというのは果たして豊穣なのでしょうか。
山田尚子が「たまこラブストーリー」「聲の形」で映画作家になった、と評価する一方、「けいおん」や「たまこまーけっと」の頃のようにアニメを信じていたいい意味のいいかげんさ、ラフに見せかけたデザインなどなどにはもう戻ってこないだろうことはいま考えるとよくはないことかもしれません。
「月がきれい」1話の終わりごろ。同じ用具係になって初めての作業をする少年と少女。「背中がよごれてるよ」と少女が少年の背中をはたく。ここがアニメの美点としてとらえるか、学生が撮る抒情的な邦画ととらえるかわかれます。観たアニメは忘れましょう。それから培った技術とモードも投げ捨てて、次回にお会いしましょう。