17.5歳のセックスか戦争を知ったガキのモード

今季のアニメーションの1話だけを観て今のモード(形態の流行)を全て決める最悪のアニメレビュー

『あしたのジョー2』その後……

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あしたのジョー2 全話フル

エロネタのあとにこれはないだろうという文です

70年代の終わりから

仕事の合間にNetflixで『あしたのジョー2』を観ながら、このアニメが原作とは違った価値を持ちえたことに気づく。監督を務めた出崎統の演出はもちろんながら、1973年の原作終了から、1980年の『ジョー2』アニメ化までの長い時間経過により、「あのムーブメントはなんだったのだろうか」と再考している姿勢も一因にあるだろう。 

原作が、かつての時代と呼応したものだったとよく言われる。たとえば寺山修司は「誰が力石を殺したか」という評でこう語っている。力石を「スーパーマンでも同時代の英雄でもなく、要するにスラムのゲリラだった矢吹丈の描いた仮想敵、幻想の体制権力だったのである」と見て、「力石は死んだのではなく、見失われたのであり、それは七〇年の時代感情の憎々しいまでの的確な反映であるというほかはないだろう。」と

では『あしたのジョー2』はどうか? そこには終わりゆく70年代から、80年代に足を踏み入れた直後の時代感情があるように思う。出崎監督たちも、終わりゆく時代を意識していたのではないか。

1980年代に放映された当時、すでに原作が終了してから7年も経過していた。すでに原作が象徴的なラストを知った状態からアニメにした、というだけではなく、時代的にも、70年代を象徴する出来事も次々と幕を閉じていったし、『あしたのジョー』も、先の寺山修司をはじめ、ひとつの時代として捉えた読みをされていたことも多い。

読みを感じさせるのが、ジョーの存在を他のキャラクターに見つめさせるシークエンスからだ。たとえばオリジナルキャラクターのひとり、ルポライター須賀清はその立場通り、ジョーというキャラクターを客観的に追いかけようとする立場だ。後半のホセ・メンドーサ戦の前に、少年院時代の仲間たちが集まるシーンで「矢吹丈はずっとあのころのままで、僕らの青春がそのままでいるようなんです。」というセリフは、そのまま当時の制作者にとってのジョーの解釈だ。

あの結末を踏まえているからか、ジョーをはじめ、登場人物も全体的に大人びて描かれている。とくに林紀子や白木葉子だ。両ヒロインはシビアな現実を象徴する側と、日常のなかで恋愛に繋がる存在だと対照的に描かれているけれど、結末へ向かうにつれてその立場が逆転することが印象深い。『あしたのジョー2』ではよりビターだ。

ジョーと闘った人間が次々と廃人になったり、オリジナルキャラクターであるレオン・スマイリーが敗戦後に事故死したり、全体を通して不吉な影が差し込まれる。これも結末を知っているからこその解釈なのだろう。

ホセ・メンドーサ戦に入ると、出崎監督たちの解釈はよりドライブしてゆく。矢吹丈が孤児院出身で、そこから逃げだし、ずっと荒野へ向かう人間であるというオリジナルストーリーは、やがてホセとの試合のなかで、都市を背景にした荒野のなかでジョーがどこかへ向かう心象風景に繋がってゆく。「ジョーとは何者だったのだろうか」それは須賀や少年院の仲間たちを通して、出崎監督たちが導いた答えのようだ。

あしたのジョー2』では、ジョーが生命を燃焼させるように闘うことで、時代から去り行く姿を描いている。1980年から1年間の放送で、終わりゆく70年代を、アニメではジョーの焦燥感に重ね合わせていたと思う。

80年代を遠く過ぎて

80年代は間違いなく何かが区切られた時代だった。そこでも『あしたのジョー』は終わらない。しかし、そこにあったのは物語の新しい解釈ではなかった。強力な登場人物の存在や、ネームバリューを利用した、広告やエクストリームなリメイクだった。

キャラクターとは一次創作からメディアミックス、二次創作に至るまでコマーシャルに転用しやすい強力なものだ。だが二次利用されるとき、一次が孕んでいた時代性や物語を平然と剥ぎ取っていく。80年代を過ぎてから、物語剥ぎともいえる流れは今もって続いている。(最近びっくりしたのが、アンパンマンの蒸しパンを買ったら、パンのひとつに、ばいきんまんが平然とプリントされていた。キャラを使う側は、キャッチーでありさえすれば、キャラが元々どういう存在かはどうでもいいのだと思った)

強力なキャラクターが生命保険やメッツコーラのCMに利用されたり、時代は周到に、梶原一騎が描いた文学性と、ちばてつやの生み出した登場人物の体温を奪っていった。80年代を過ぎてからのジョーとは、周到に物語と登場人物としての体温が奪われていった過程そのものである。

物語をがらんどうにしたことがよく現れたのは、むしろ現代での映画化やリメイクだった。曽利文彦監督の『あしたのジョー』は、なんとドヤ街を丸々CGにしてしまった。CGによる演出を主にする監督とはいえ、ここまで空虚にしてしまえる力が発揮された映画もない。(昔、書いたレビューがあった。

日本では縮小したとはいえ、いまだってドヤ街はあるし、ジョーの出自となる、厳しい環境だっていくらでもある。だがその現実をまるまる覆い隠した。

メガロボクス』の現実から遠ざかる姿勢も強い。いまドヤ街のような貧困地帯とは、ポストアポカリプスやSFを借りなければならない事情が悲惨だ。ボクシングのアニメート自体はパンチがヒットした瞬間などかなり頑張っているものの、原作本体の物語を周到に回避していく態度のなかに、80年代から何十年もかけて物語を剥いできた現実がある。

あしたのジョー2』 は80年代に折り返す間際を美しく捉えた作品だが、自分が現実に目にしてきたのはその後だった。40年近くに渡って、ある現実を回避していく態度で無化していくことのほうに、ずっと考えるべきものがある。

保険やラーメンのCM、CGで描かれたドヤ街、未来世界の下層地帯として描かれた世界を目にした後で、『あしたのジョー2』のホセ・メンドーサ戦で、屹立するビル街を遠くに見据え、廃墟のようになった街から去っていこうとするジョー、というシークエンスを観ると、なにが過ぎ去っていったのかをより強く感じるのだ。

ぼくが「観たアニメは忘れましょう」と言うまでもなく、現実は過去の作品で何が物語られていたかを忘れていくし、技術は培われても、物語が培われないことを思い知らされる。よくできた物語に次回などなく、二度と出会うこともできない。