モノノケ庵 視聴
記事タイトルは以下の書き散らしのあとで無理やり考えました。意味はありません。期待度と捉えてもらっても大丈夫です。さてまたひとつ現れました。瞬間的に熱しすぐさまに忘れ去られ、次なる瞬間に繋げるための礎です。
アニメ化するときのデザインの方向はあって、原作に動画で色付きで声優が声を当てたレベルのテキストの拡張レベルのものが最低ライン、原作のテイストを制作サイドが解釈しなおして少々実験的な表現であろうと導入して再現しようとすると優秀、そして原作丸無視して制作サイドが持ちうる技術で完全に書き換えるあたりからストライクになるかガーターになるかの両極端の反応が客層に起きます。
もちろん、ストライクかガーターを狙うデザインを求めてやってるところは意外にも少なくないわけですが、ほとんどの場合のメディアミックスは不確定なそれに耐えられない。体力もない。技術もない。ほとんどは原作に色と動画をつけたテキストという最低ラインで回っているのだよなと思ったのでした。今シーズンぴえろやトムス・エンタテインメント作品の多さの前に最低ラインの存在を感じていることになりそうです。
ぼくはてらてらのデジタル彩色で彩られた妖怪の描写を見ながら世界とは思ったよりも保守的であり、にもかかわらずそれは別に守るべき気概や伝統を意味しておらず単に自分の食い扶持や立ち位置のことであり、それを守るために徐々に終わってきているのだとかなんとか10秒くらい思っていました
ぼくは急に自主制作アニメ作家・伊勢田勝行さんの作品が観たくなりました。最低ラインの存在を忘れ去り、破壊したくなったせいかもしれません。完全に壊れたアニメート、一昔前の少女マンガの絵柄が瞬くように動くそれは一目見るだけで商業アニメーションがなんとか業界を稼働させる最低ラインをクリアしたアニメの感覚を崩壊させるカタルシスがあります。
伊勢田作品は「アウトサイダーアート*1だ」とも言われるのですが、そうした作品を見る際の上手い下手の次元ではない、既存の良識や鬱屈を晴らすような感じすらあるわけです。なんで伊勢田勝行の話なのでしょうか?
観たアニメは忘れましょう。でも培った技術とモードはそのままに、また地獄でお会いしましょう。
*1:アカデミックなアート教育の規範から完全に外れた犯罪者、精神破綻者による作品