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葛西祝によるアニメーションについてのテキスト

宮崎吾朗の父親殺しはつづく「山賊の娘ローニャ」

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山賊の娘ローニャ 制作:ポリゴンピクチュアズ 監督:宮崎吾郎

 また一つ現れました。瞬間的に熱しすぐさま忘れられるために生まれ、次なる瞬間に繋がる礎です。宮崎五朗作品。その作家性の全ては父・宮崎駿との関係性そのものに集約されていると見ていいと思います。

 

 

アニメどころか映像技術のベースも不明な息子の、偉大なアニメートを持つ父殺し 

 

 宮崎駿引退。ジブリの折り返し。それが現実化する以前からいずれ来るだろうそれに備え、ジブリにて後継者を立ち上げるということで実子である宮崎五朗を監督に「ゲド戦記」が製作。それには唐突さを隠せませんでした。

 

 あの作品は当時のそうしたジブリの背景を示すかのように主人公アレンの父親殺しから幕を開けていました。作品的には最後までそのことはフォローされてなかった記憶がありますが、あの映画はその冒頭のシーンですべてが終わっていたと言っていいです。

 

 宮崎吾郎の経歴を眺めても、アニメーターではないどころかろくな演出経験など映像制作においてのベースがおそらくないという空前のケースです。だとするともう、残るのはコンセプトしかない。そのコンセプトそのものがあのシーンでしょう。

 

 宮崎吾朗という監督の唐突な登場と唐突な父親殺しの宣言というジブリ黄昏か革命かの気配の凝縮した緊張と呆然。その感覚を味合わせたあの冒頭わずか数十秒こそが宮崎吾郎の最高傑作に他ならないです。

 

 半ばスキャンダラスな側面の背景には鈴木敏夫のプロデュースの意図も入っているのでしょうが、「ゲド戦記」はその全体の内容の不出来ゆえかつてない批判が巻き起こりました。そこがフォローされるかのように、第二作「コクリコ坂より」は脚本に宮崎駿が付き、ゲド戦記の唐突な殺伐さから一転、懐かしい昭和の気配を描き、父と子の共作であり和解ということで収まったかに見えます。

 

  ところが、宮崎吾郎父親殺しは実は終わっていませんでした。しかも、今度はコンセプトじゃなく心臓に向かって刃を立てに来ています。おそらくは意図もせず無意識で。それが「山賊の娘ローニャ」です。

 

セルルック3DCGという子供の、2Dアニメという父親殺し

 

   「ゲド戦記」の時点ではコンセプトまでの父親殺しで、アニメートは基本的に旧来のジブリチームのものでした。ところが、「山賊の娘ローニャ」で無意識で行っている父親殺しは違います。それは核心部分であるアニメートに及んでいるからです。宮崎駿東映動画から培ってきた日本のセルアニメの技術や豊かさを3DCGというナイフで刺し、冷たい身体に変えようとしているかのようです。

 

 

 

 セルルック3DCGアニメは現在最大の日本アニメの歪なテーマの一つです。ディズニーやピクサーの3DCGアニメは3Dならではのフレームレートの時間と360度に広がる空間感覚に忠実ですが、日本のセルルック3DCGはそうではありません。 かつては実写の空間感覚にあこがれた日本アニメですが、今度はそんな実写の時間と空間感覚を表現できるはずの3DCGで時間と空間が制限された2Dにあこがれるという倒錯がここにあります。

 

 近年の日本アニメは「シドニアの騎士」「アルペジオ」そして「艦これ」が控えるなどセルルックの3DCGで、2Dアニメのような3コマ打ち中心(1秒に8枚の動画を中心に、シーンやタイミングによって1秒12枚など使い分ける)ので表現が見られるようになりました。

 

 ぼくがセルルック3DCG作品のコンセプトや経緯、そして歪さとして最高傑作と今んとこ思うのは「RE:Cyborg 009」です。あそこには押井ープロダクションIGラインの実写に強烈にあこがれ、そして今度は2Dアニメの時空にあこがれる3DCGという日本アニメ技術発展の歪さハイコンテクストさが凝縮されてます。

 

 元々押井守作品のアニメート方針はいかに2D手描きの温度やウソをかき消し、日本アニメを実写映画的な時間と空間感覚に近づけることに腐心していたと思います。2Dのウソや温度を徹底して取り払うそれは、やがて2Dというフォームは必要とせず、さらにウソや温度を取り払うセルルック3DCGへと繋がります。「RE:Cyborg 009」はアニメの手書きの温度やウソを掻き消し続けた押井守-プロダクションIGラインのクリエイティビティを継いだ形で、神山健治の最高傑作だと見ています

   

 ところがローニャに関しては本当にえげつないないです。なぜなら宮崎駿のアニメートというのは、明確なメソッドを持ちながら手描きで2Dならではの温度やウソに溢れた自由さを徹底して表現し続けてきたからです。3DCGの導入も、基本手前←→奥にカメラが動くシーンくらいに限られています。

 

  3Dというのはデッサンが狂わないし、2Dが苦手な360度カメラが動く空間表現を得意としています。ですが2Dならではの時間感覚や表現のウソがなくなり、まるで拘束具のようになります。「ラブライブ」のダンスカットなんかはわかりやすくて、すごい2D動画のカットは生き生きしてるのに遠景でダンスフォーメーションを見せる3DCGカットになった瞬間、全員がこけしに化けます。

  2Dと3Dの商業アニメートトップであるディズニーは流石にこの問題に気づいていて、双方の利点を取りいれたハイブリットの研究を重ねています。それが短編「紙ひこうき」です。

 

 

 ディズニーは2Dアニメも3Dアニメも双方極めているため、こうしたネクストに向けた手描きの不確定さや温度を持った3DCGアニメートが研鑽されていますが、日本ではまだわからないです。

 

 現在のセルルック3DCGアニメは、2Dのウソや温かみを徹底して消してしまう「RE:cyborg009」や「シドニアの騎士」のようなプラスチックな作風と、「アイマスゲーム本編」や「プリキュア」みたいな2Dアニメの女の子のダンスなどフィギュアな魅力を最大化することの二つです。

 ですが、宮崎駿ジブリのフォームはそのどちらもありません。徹底して手描きのアニメートで成立しているものです。そこを3DCGモデルで手をかけるなら先のディズニーレベルの研鑽が必要なのですが、「ローニャ」はその研鑽もないまま、無機質さか性欲の表現が生きる現在のセルルック3DCGで宮崎駿のアニメートの聖域に踏み込み、そして手描きの躍動や温度を奪い殺そうとしています。この無批判なままにジブリのフォームをセルルックに変えるそれは、宮崎吾郎のやはり唐突で呆然とさせられる父親殺しの続きに他ならないと見ます。観たアニメは忘れましょう。しかし新たな技術と培った技術をつなげるのは、やはり並大抵ではありません。次回にお会いしましょう。

 関連エントリ

 ディズニーの短編映画Papermanについての考察 

  上にあげたディズニーの「紙ひこうき」に関してCGデザイナー・榊正宗氏による解説。3DCGモデルと手描き2Dをいかに埋め合わせるかの技術解説、

3DCGをやってる人が手描きアニメに学ぶ必然性とは

 そして同じく榊氏による3D・2D表現に関して。