17.5歳のセックスか戦争を知ったガキのモード

葛西祝によるアニメーションについてのテキスト

追悼 高畑勲

Ads

  

 

高畑勲は亡くなったという感じがしない。これは元気で明るかったあの人がふとした時に帰ってくるのでは、と期待する意味ではない。氏の活動全てにノブレス・オブリージュ(仏: noblesse oblige、直訳で「高貴な立場による責務」。概念がいささか広く、フランス語の概念そのままでは階級制度の上下の意味も含んでしまうため、本稿では「文化に対する教養を持つものの使命」という意味に絞っている。)としての日本のアニメーションという意味合いが含まれているのがその理由かもしれない。

たとえば創作を生涯続けるために走り続けている人間の訃報を聞いたとき、まるで未完を目にするような死の印象を受けるし、またある時期に全盛期を迎えるも、時代に合わなくなることで創作から離れたあと作家が数十年してからひっそりと訃報を聞くのも死の印象を強める。しかし高畑勲の訃報を聞いたときそうした印象ではなかった。氏のノブレス・オブリージュとしての意味がいまだ続いているからだ。

高畑勲はアニメーション作家というよりも、ヨーロッパ圏のアニメーションへのシンパシーが強く、フランス文学の翻訳も行う教養を持った、ある種の評論家でありプロデューサーであるという印象が強い。

アニメーションの監督のタイプでは自分で絵を描けるかそうではないかで、アニメーションの世界を実写的な意味でとらえるか、それとも実写とはひとかけらも似ていないアニメーションという構造の部分に自覚的になれるかで大きく差がわかれる。

絵を描けない監督が構造に自覚的になるのは難しく、おおよそ実写と同義でアニメーションをとらえる以外に方法がなくなりがちなのだが、高畑勲の作品を見るに絵を描けないながらもなんとかアニメーションならではの構造に自覚的たろうとしていることが印象深い。

それも高畑勲の経歴が関係しているのかもしれない。フランスのポール・グリモーが制作した『王と鳥』に深い感銘を受けていたことがアニメーションに進む契機であったなど、アメリカのディズニーやフライシャーのような「まるで現実に近いメカニズムを持った、商業的なアニメーション」を志向するよりも、「様々なメディウムによって制作され、メタファーによって物語を語る」ヨーロッパのアニメーションにシンパシーがあった。

その後もヨーロッパのアニメーション、たとえばロシアの『話の話ユーリ・ノルシュテイン、カナダの『木を植えた男』のフレデリック・パックといった作家の日本への紹介を続けていたし、2000年に入った後も『ベルヴィル・ランデブー』や『キリクと魔女』の紹介を続けていた。いずれも線形のストーリーではなく、観客に文脈を読み解かせる間合いを持った長編だ。

こうした方向性も関係していたか、一昨年公開された『レッド・タートル ある島の物語』では氏はアーティステイック・プロデューサーという位置にも就いていた。

氏のこうしたスタンスが三鷹の森ジブリ美術館ライブラリーにてわかるように、数少ないヨーロッパ圏のアニメーションを日本にて公開し、ソフト化して広める活動に繋がっている。

そこにノブレス・オブリージュとしての高畑勲の意義を見る。優れた作家や評論家は同時に優れた紹介者でもある。そして優れた紹介を行うためには優れた評論の技術が必要になる。ヒット作みたいな大きな話題について評論するだけの人間はネット以降うんざりするほど目にするけど、その評論の技術を持ちつつ、まだ価値を発見されていない作品を紹介していける人間になるとその数は激減する。(余談ながら、批評家や評論を行う人で流行ってるもの評論だけではなく、なんらかの作品発掘や紹介をやってないとしたらあまり信用しにくいなと感じる。「どう語るか」以上に「なにを紹介してるか」で評論やる人は測定できる。いずれにせよ文脈を発見することなので。)

氏がこうしたスタンスを持てたのも、まだ日本で商業アニメのフォーマットが確立していないのもあったかもしれない。欧米の長編アニメーション制作に並ぼうとしていた初期の東映動画が『白蛇伝』をはじめとする長編アニメーションを制作していた時代だ。アニメーションでしかできないことに自覚的だった。

やがて東映動画も方向性を転換、手塚治虫をはじめとしたテレビの商業アニメーションが本格的に展開されるなか、日本のアニメーションはキャラとテキストすらあれば成立する記号的にしか解釈されかねない流れで、徹底した考証などで世界観を堅持したり、記号的な表現に収斂されない感情表現を追う。

こうしたアプローチのいずれも、自分にはクリエイティブとは違う印象を持つ。国内でサブカルチャーと化したアニメというジャンルが、ノブレス・オブリージュとしてサブカルチャーという枠の中で朽ちないようにする使命感ではないかと感じる。

今のように日本型の省力アニメーション~以後に実写映画的なリアリズムを獲得して以降に現れた、絵の描けない演出家や監督との差はそこだろう。典型的な日本のアニメ文法、宮崎駿のアニメフォームというものが確立されても、さらに記号的なフォームだと見て抵抗する感が「火垂るの墓」「おもいでぽろぽろ」にある。

日本アニメの記号的なフォームではなく、1997年前後からのデジタル制作に転換して以降はヨーロッパのアニメーションのような多様なメディウムによる表現を長編でも生かせないか、というのが「ホーホケキョ となりの山田君」「かぐや姫の物語」にあると思う。

いずれにせよ、どの作風も作家性というよりも、気を抜けば商業の現実の中で、記号的な表現の中で消費されて終わるジャンルに落ちかねないところを正す態度こそが、氏の価値ではないか。

もうノブレス・オブリージュはアニメ界にはひとりもいない。いま高畑勲の訃報をまえに「火垂るの墓」のことばかり話題にしたり、宮崎駿コントラストとしてのの意味を強めた論評を目にするたびに、ノブレス・オブリージュとして与えるものを誰もが受け取れるわけではない現実を目にする。

氏が存命のころから、それを受け止められる人間の数は多くはなかったことも亡くなったと感じさせない理由かもしれない。だが為したことは残る。時のなかで誰かはそれを受け取るだろう。