大家さんは思春期! 視聴 ふなっしー
またひとつ現れました。瞬間的に熱しすぐさまに忘れ去られ、次なる瞬間に繋げるための礎です。
その日はもはやどうしようもなかった。 幸運が重なることまずないのだが、不運が重なることは当たり前にあるのだ。「そういう時こそ一つずつ問題を解決していけばいいんだ。不運が重なり塊のようになってしまっているから立ちくらんでしまうんだ。」生きてきた中で最も学ぶことが多かった人はそう言った。
しかしそうやって冷静になるのにも、体力や気力は必要だった。目の前の事態が凄絶なことはわかっていた。だけど意識が朦朧としていて現実感がなかった。ここ一か月はエレベーターを待つ間、電車の区間準急を待つ間、待ち合わせの間の、ささいな時間に目を閉じるくらいしか眠る時間を取れないくらいだったからだ。
目の前のマツダCX-5のフロントは凹み、ヘッドライトの片方のライトだけが消えている。午前1時だというのに人がまばらに集まっているのも、衝突した音の大きさを物語っているのかもしれない。GUを着込んだ男がなにかを言っている。遠目には20代くらいに若く見えていたのだが、こちらに近づくにつれて顔のしわやシミが目立つことがわかった。徐々に事態の深刻さを自覚していくにつれて、この後の仕事、警察への説明、家族にどうすべきかを考えていた。逆に今日は少し眠る時間が取れるのかななんてことさえ思った。
その時つけっぱなしにしていたカーテレビから「ふ、ふつつかものですが、よろしくお願いしますっ!」という声が聞こえた。画面には女の子が大家をやっているだとか、メガネの男が大真面目に話している映像が流れた。
世界の理屈というものがどうでもいいことを示すような展開が続いた。TVの中でも外でも。世界には意味が無い。そう考えた瞬間、一つのイメージが閃光のように閃いた。それは地球上に同じような境遇の人々が同じように苦しみ、意識が混濁した自分のような状態の人々が鏡合わせのように無限につらなって映るイメージだ。それはマンハッタンでも。台北でも。ヨハネスブルクでも。同じように眠れず追いつめられながら苦しみ、今まさにさらなるトラブルに巻き込まれた一人の人間がいるだろう。そうしたひとりひとりがフラクタル画像のように織りなしているのだ。苦痛も、なにもかも意味は無いのだ。世界とは無意味だ。
GUを来た男はTVを切れとわめく。だがそうしなかった。それはささやかな憤りと、不実と、不運への抵抗だった。怒号とざわめきの中、パトカーが近づく音が聞こえるとともにTVの中の女の子の声が響いた。
観たアニメは忘れましょう。でも培った技術とモードはそのままに、次回にお会いしましょう。