17.5歳のセックスか戦争を知ったガキのモード

葛西祝によるアニメーションについてのテキスト

作品の解釈における情緒とロジカルの間

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 ふと匿名で書かれた伊藤計劃作品への批判のエントリを目にした。書かれた方は様々な媒体にて執筆した経験を持っているようだが、すでに神格化が為され、多数のメディア展開が行われている伊藤作品について公に批判することにはリスクが伴うということで、匿名で発表することにしたとのことだ。

 

 

 その文体や欠陥部分の指摘などを合わせて、わかる人にはトンデモ本の世界を作った中心人物のあの人が書いたではないかなと目されているようだ。内容には喧々諤々のコメントが寄せられているのを観たが、ぼくが考えるのはそもそもの作品世界の解釈についてだ。伊藤作品に物申すことが業界でだめな空気なのかは知らない。

 

 それは作品を解釈する際に、極めて単純に言って情緒的な部分を重視するか、架空の作品世界のロジックを重視するかだ。

 

 作品を紐解くとき、その文体や登場人物の感情、そして作り手の意識が混ざり合った情緒的な部分で解釈しているのか、それとも描かれる架空の世界のルールと、プロットを整合させるかでわかれると思う。前者は純文学の評価に近く、後者は特にSFやミステリのジャンルで重要なのだと思う(当然この両者は白黒で割り切るものでもないし、純文学が全て情緒なわけがない)。両者が混ざり合ったのが理想だが、ふと思ったがその辺のバランスがいいから例えば「ハンターハンター」は評価されてんのかなと思った。

 

 件のエントリの論旨がプロットの整合性などを持って「SFというジャンルが低レベルのジャンルと思われる」とこうしたロジックの破たんに関してめっぽう敏感なあたりに、「書いたのはあの人ではないかな」を感じるのは分かる気がする。

 これを読みながら感じたのは、思った以上に伊藤計劃というのは文学に近い解釈をされ、消費されていることだ。それはつまりロジカルな架空世界を描くジャンルとしてのSF以上に、ある程度の作品世界もしくはプロットの破綻以上に情緒的な解釈が評価されてること(ぼくはそうです)、そこには作者の病と夭折といったセンセーショナルな境遇も関係している点だ。

 

 作品の内容と作者の背景を含めたその後の展メディアミックスの展開まで含め、作品の解釈とその広まり方が、発想とロジカルさをこのジャンルのポイントとしているタイプにはおかしく見えても不思議はないかもしれない。

 

 「ハーモニー」を読むとき、ぼくはどうしても作者が病で文字通り身体を削っていた背景を重ねてしまう。あの陰鬱な作品世界はその背景からすべて逆算されたものだと思れ、作者の背景の関係の無い、独立した作品世界のロジックという面はあまり重視していなかった。それはもしかしたら文学のみで回収できる美であり、もしかしたら架空の世界をいかに説得力ある論理的なものとして構築する美を無視している読み方だったのかも知れない。

  

 ちなみに最近読んでるSF作家で面白いなあと思うのはチャイナ・ミエヴィルです。読んだ小説は忘れましょう。でもぐるぐるとめぐる情緒とロジックの関係はそのままに、次回にお会いしましょう。

teenssexandwarmode.hatenablog.com

 

 

都市と都市 (ハヤカワ文庫SF)

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