17.5歳のセックスか戦争を知ったガキのモード

葛西祝によるアニメーションについてのテキスト

ピクサーの実話がけっこう混じってるだろう「インサイドヘッド」

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インサイドヘッド 視聴フル 監督・ピート・ドクター

 

 確かにほうほうで言われているような冒頭のなぞの監督あいさつ・そしてドリカムの歌に合わせて知らん家族のしらん子供たちの写真がでてくるという映像は「オレほんとうに映画館にいるのかな」と思いました。ものすごい低予算のホームカメラと映像ソフトでパパッと作ったレベルのものが大画面で流れることの無情を、シネコンの本番が始まる前のCMで散々体験しているわけですがまさか本編直前でやるとは…

 

 にもかかわらず、本編はけた外れに面白く今年トップの作品です。なぜって脳内会議アイディアネタに見せかけ、よく言われてるように作品にピクサーの実話ネタ感・仕事哲学感がまるまる投入されているかんじが今回も爆発してるからです。

 

 あらゆる人々の心の中で行動を決めるヨロコビ・イカリ・ムカムカ・ビビリそしてカナシミ。人々によってこれらの感情を司るリーダーは違うのですが、主人公の少女ライリーは生まれたころから楽しい思い出によって人格を成立させるため、ヨロコビがリーダーを務めています。子供のころはそれで順調に進んでいました。だけど11歳のある日から引っ越すことになり、感情は複雑なものになりだんだんヨロコビのリーダーシップも難しいことになり…

 

 主人公ライリーのパートはまるでヨーロッパの子供を主人公にした名作映画みたいなテンションであり、色数を絞りシックなムード。それと対照的に頭の中の感情会議室はバリッバリに原色を効かせる極めてアニメらしいデザイン。つまりカンヌとかに出品されるような少年少女のささやかな心の動きを描いた映画をアニメで茶々入れてるような構図!コントみたいなとこあるんですよ。


 感情たちを擬人化して脳内会議、というのはアイディア一発っぽいのですが、実際の映画はピクサーならではの生活感と自分らの仕事の実感が混ざり合った内容になってます。ヨロコビのリーダーシップあるある感は凄まじいですよ。

 

 プロジェクトの成功を求めるあまりその目的を「思い出は喜びだけにすればいい」みたいに極めて単純化して不安要素を省きまくるやり方するし、鬱になっている部下に対して「楽しいこと考えたらいいじゃない!」で逆に追いつめてしまってる感じとか。そしてリーダー不在になった後のイカリ・ムカムカ・ビビリのチームが本当に役立たずになりライリーがぐちゃぐちゃになり、プロジェクトがドツボにハマっていくのとライリーの成長期ならではの難しい感情がダブるという展開は凄まじいです。

 

 インサイドヘッドの制作前の逸話も含まれたピクサーの「ピクサー流 想像するちから」を読んでみますと、どことなく本作の生まれる環境を感じることが出来ます。設立の逸話からジョブスとの関わり、そしていかに作品を作り上げるかのスタンスや手法についてを語っています。

 

 ピクサーは最初の発案は「駄作である」とし、「いかにそれを傑作にするか」という幾度もブレイントラスト会議を繰り返すそうです。本音で意見をぶつけ合い完成度を高めると言うそれで、ピクサーの主要メンバーの5人が始めたというそうで、なんとなく本作の主人公5人の感情ともダブる感じありますね。

 

ピクサー流 創造するちから―小さな可能性から、大きな価値を生み出す方法

ピクサー流 創造するちから―小さな可能性から、大きな価値を生み出す方法

 

 


 作中でヨロコビが築き上げてきたライリーの記憶や人格にまつわるプロジェクトがミスで崩壊していく、それがライリーの気難しい性格に…という展開になるんですが、実際ピクサーも読んでるこっちが死にたくなるようなとてつもない失敗があったそうです。

 

 かつて「トイストーリー2」を作ってた時、なんとどこかでプロジェクト全消去処理をやらかした。次々に消えるデータ、あまりの緊急事態に対策の懐疑。ギリギリのところで自宅の方にバックアップがあることに気付き、再生。そこから犯人捜しをして責任を負わせるということなく、今後の対策を練ったと言います。なぜかそこんところの組織論といったピクサー話が本作とダブります。ここんとこが日本アニメ特撮の研究しまくったり、ビデオゲームの文脈かなり抑えてるディズニーアニメーションスタジオの伝統とオタクぶりとのデカい違いを感じますね。

 
 しかも「そう3Dアニメートの可能性として写実的なリアリズムどうたら、アブストラクトなコンテクストどうの」みたいなぼくのようなどあほうサイドでも響くようなアニメートやってくるあたりも渋いですよ。中盤くらいに突然ハードな3Dモデルがローポリになり、やがて抽象化が進んで一本線とか三角形だけになるとかミニマリズムのパロディみたいなシークエンスやってくるし。やらしいですよね。デヴィット・オライリーみたいな「アート・インディペンデントな切り口もイケるんだぜ」みたいなブロックバスタームービーの遊び。
 
 脚本のおさまりどころも半端なくて、プロジェクトが崩壊しかけてたチームがなんとかギリギリで再構成しなおし本来不要だったかもしれないメンバーも適切な役割を知ります。それに伴い感情というものは決して喜びだけで成立しているわけではなく、年を取るにつれ悲哀もまざった繊細なものになります。チームもライリーもぐちゃぐちゃな暗黒の時期を乗り越えEND!「失敗は早いうちにしろ」との哲学を上げるピクサーらしい筋。そして思春期編と続編の可能性も出してる!

 

 実際思春期の子供のお父さんである監督からしたら子供の感情の移り変りがしんどくてたまらん感じも受け、なにやらそれもしみじみさせられます。 

 それにしても感情や心って、それは脳の動きのものなのか?それとも別のものとして捉えるべきか?って議論は昔からあり、脳科学者であるとか心理学者かのサイドによって解釈は変わります。養老武司は「心が脳という器官を使っている」(間違ってたらごめん)という解釈を取っていました。でも、本作は心や感情ってものをはっきり頭の中のもので、そして感情や思い出ってのシステマティックにしてますよね。

 

 心や感情の解釈についてはぼくはセンシティブな養老武司の解釈のほうがなじみ深く、本作が今年何よりも優れていると思う一方で心底から同意しきれない部分があるとしたら、そういうドライで合理的なな仕分け方の面かもしれねえなあとも思っております。そしてそれはアベレージヒッターたるピクサーの編み出した合理性ゆえなのかなあとも思います。

 

 ではセンシティブな側を描くことこそ日本商業への期待なのですがえーっと日本の今のトップはこれ・・・いいやもう脳は心!合理的でいい!観たアニメは忘れましょう。でも培った喜びと悲しみはそのままに、せめてだれかビビリのコスプレをしましょう。

 

インサイド・ヘッド オリジナル・サウンドトラック

インサイド・ヘッド オリジナル・サウンドトラック

 

 

唯脳論 (ちくま学芸文庫)

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