17.5歳のセックスか戦争を知ったガキのモード

葛西祝によるアニメーションについてのテキスト

現実が全て死滅する「コングレス未来学会議」レビュー

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コングレス未来学会議 監督・アリ・フォアマン 視聴フル

 
 日本の商業アニメ監督が作家性を発揮すると共通しがちなテーマに現実と虚構がある。主に押井守庵野秀明らをはじめ今敏山本寛などがそうだ。それはテキストからアニメートにまで反映している。実写映画への強烈な影響を元にレイアウトやコンテの構成を行い、日本式の商業アニメが独自の進化を歩む中で生まれた澱であるゆえに、そのテーマにぶち当たるのかもしれない。


 現実と虚構、海外の商業アニメーションではこのテーマに関して外国人で掘り下げるケースはほとんどない。むしろ、世界的な範囲でのアニメーション史に忠実な教養や技術を習得している作家ほど、このテーマは選ばないのも確かだ。*1


 しかしそんな中、このテーマに関わっている異色の外国人アニメーション監督がいる。イスラエル出身のアリ・フォアマンがそうだ。代表作を観ればどう異色なのかが伝わるはずだ。

「戦争でワルツを」はレバノン内戦を描いたハードなアニメなのだが、そのアプローチからして違ってくる。主人公がアリ・フォアマン監督本人なのだ。なんと監督本人がレバノン内戦に従軍した経験を持っており、監督本人がその時の記憶を失っているというのだ。物語は過去の仲間たちの話をすることで、あの時何の記憶がなくなったのかを見つけ出していく。Flashを生かしたアニメートが見ものだが、ドキュメンタリーの要素、幻覚と記憶というものが歪に混ざり合い、最後現実に到達するエンディングが印象深い作品である。

 

 「コングレス未来学会議」はさらにそこから踏み込み、現在の映画さえ取り巻く現実と虚構のテーマに突入している。それは日本商業アニメにおける現実と虚構の関係にあまりにも近寄った、異質な内容だ。シリアスに見える?いやいや違う。メタで、普通に爆笑できて、そして哀しいという松ちゃんの映画に技術と教養を注入したみたいなアニメーションだよ。


 
 さて「コングレス未来学会議」が非常に日本の商業アニメーションにおける現実と虚構ネタにリーチしている点とはその構造にある。それは現実=実写映像、虚構=アニメーションとして前後編分けて展開されるあんまりにもなものだが、ところがモチーフとしているものが現行のハリウッドや海外ドラマに関してのもので、話が大きく変わる。

 
 スタニスワフ・レムを原作としながら、今作もドキュメンタリーのような部分がいくつも搭載される。冒頭は実写映画として進み、主人公のハリウッド女優、ロビン・ライトがなんと本人役で登場。旬を逃した女優とし過去の代表作の映画チラシ(もちろん実際に存在する映画だ)が挿入される。ある日、特異な契約の話をマネージャーが持ち込んでくる。


 それはえげつない話だ。映画会社ミラマウントという明らかにパラマウントを捩ったところから「20年間の契約で、俳優としてのデータにしないか?その代わり、本人はあらゆる演技する権利をはく奪される」という内容だ。なんとあらゆる有名俳優は自身をデータとして売り渡しキアヌ・リーブスもすでに契約しているんだ」みたいなCG合成ネタが明らかなマトリックスいじりのギャグまでぶち込んでくる。

 

 現行のハリウッドや海外ドラマは今や効率化のために現場で映像を撮るということなく、グリーンバックの中をあとはCGで合成して画面を作っていると言うことは比較的知られている話だ。それはSFやファンタジーみたいな題材ではなく、現代劇であってさえもだ。

 

 実際に俳優のインタビューも数多く行う映画評論家・町山智浩氏によればどうもさらにそうした処理は進んでおり、「コングレス」がハリウッドの制作体制をデフォルメしたレベルではないらしい。

 

たとえば、もうかなり昔の事実で。『ウォンテッド』っていう映画でアンジェリーナ・ジョリーが主演のアクション映画があったんですけど。僕、その取材に行ったことがあって。その時にアンジェリーナ・ジョリーに『すごいアクションでしたね。走る列車の上で、命がけのアクションでしたね』って言ったら、『私、やってないわよ』ってその時に言われたんですよ。『あれはコンピューターグラフィックスで動かしている人型に私の顔とか体を貼り付けただけよ』って言われたんですよ。

 

 こうして前半の実写映画によるシークエンスですら、彼らが本当に現場で撮影したのかすらもわからなくなってくる。実際、実写にあこがれたアニメ監督の撮った実写というレベルではなく、使用されるカメラ、照明、イマジナリーラインを抑えたカットなど質が堅牢だ。だがシステマティックなゆえに逆に実写ならではの現場のフィジカルさを感じにくくなる。*2

 

 

 難聴を抱え、視力も失っていく病気を抱えた息子アーロンのため、そして過去の自信の栄光のためにロビンは自身の女優としての権利をミラマウントにデータとして売り渡す。そのシークエンスは実写映画として優れ、美しく悲しい。感情や表情、演技をスキャンする機械の中、「感情をこめて泣け」と言われてもロビンは上手く演じることはできない。長らく連れ添ったマネージャーは見かね、演じやすいようロビンに昔話を始める。ロビンは彼の話に笑う。その瞬間スキャンニングの光が幾度も煌めき、彼女の心からの感情がデータにされていく。

 

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  映画に置けるフィジカルな現実がいよいよどこにもなくなっている。全て虚構ということを示したまま物語は20年後へとすっ飛ぶ。60代を超えたロビン・ライトはミラマウントへ契約の更改に向かうのだが、おっかないことにミラマウントは生身の現実をすっ飛ばしたデータから映画を作り過ぎたあまり、なんと人々が好きなキャラクターになり生きることが出来る薬を製薬会社へと転換していたのだ。

 ロビンはミラマウントの入場にその薬を吸うのだが、そこからサイケデリックかつクラシカルなアニメーションの世界へと突入していく。それは恐ろしくシニカルでグロテスクな世界だ。人々はジョン・ウェインになり、マリリン・モンローになり、マイケルジャクソンになる。

 


 古いフライシャースタジオのデザインを模したキャラクターデザインは、ここでは愛らしさや親しみやすさを一切意味しない。ミッフィーやキティちゃんのような黒目だけが提示されたキャラクターデザインは、意図して表情が無いように出来てる。だからシニカルでグロテスクな解釈になりにくい。アメリカの商業アニメが培った、生身のように生き生きと表情豊かに演技する夢のようなキャラデザインは、シニカルな目線で観た瞬間に夢から一転、グロテスクな悪夢に映る。(ディズニーランドが世界一気持ちの悪い人工的な場所だと思う人もいるだろう)

 

 ロビンは売り渡した自身のデータで作られた明らかなクソ映画「ストリートファイター」のトレーラーを見せられながら、ミラマウント社がいよいよ人が望んだ夢になれる薬の新作の発表会に出くわす。だがそこで暗殺者が現れ、革命が…しかしもはやどこから現実なのかあやふやになる。

 

 だが薬はやがて切れる。グロテスクなワンダーランドのアニメーションから一転、再び実写映像に戻るのだがそこは、空虚な現実の光景が広がっていた。この転換は「戦争でワルツを」のファイナルカットに大変似ている。

 もはやロビンの確かな現実として求めるものは、難聴の息子アーロンのことだけだった。彼女はそれを探す。だがその果てにたどり着いた結末は辛い。アニメーションに突入した後半からはアーロンが一切実写映像として登場しないことも重要だろう。それは「戦争でワルツを」と対を為す結末みたいだ。

 

 アリ・フォアマンによる現実と虚構のネタは、現行のハリウッドのネタとも絡みあい現実が死滅していく様を描く。それは押井守の「ビューティフルドリーマー」みたいなのとも「アヴァロン」みたいなそれとも違う、シニカルなものだ。

 

 さて日本の商業アニメーション的に、ひどい意味で示唆に富むシーンの事で締めよう。作中にてロビン・ライトのデータを扱い続けたアニメーター・ディランが登場するのだが、永遠に歳を取らない彼女の映像を作っているうちに恋に落ちてしまう。ロビンに出会った時には作中で60代の老婆となっているのだが、その感情は消えない。革命軍が起こす混乱の中ともに逃げ、最終的に添い遂げるのだが「セックスのスタート、騎乗位からなんだ…」って受け身なあたりになんでかしみじみした。

 それは17歳とかネタにしながらある意味マジな田村ゆかりだとか井上喜久子に思い入れ、添い遂げるオタクがいたとしてやっぱりセックスのスタートの体位は騎乗位からになるのだろう。そう、この書き散らしの終了はオタクとアイドル(声優)とのセックスネタみたいな意味の無い下品なネタだ。生身の現実ではないデータやシミュラークルと恋に落ちる。観たアニメも忘れる。映画も消える。現実は死滅する。

 

コングレス未来学会議 公式サイト

 

戦場でワルツを 完全版 [Blu-ray]

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*1:単純にアニメートの最高水準は「実写映画の作法を引用していき写実的なレベルを上げる」ということだけにとどまらない自由で広いものなのはアートアニメーションを観ればわかるというまでもなく「ニンジャスレイヤー フロムアニメイション」とか観ればわかる

*2:手振れカメラ、ドキュメンタリータッチという映像手法がもたらすのは、映される映像や人間が「生々しい現場である」というフィジカルさを取り戻そうとするものだった だが今はそれすらも後で弄れる程度の手法になっている