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葛西祝によるアニメーションについてのテキスト

『新世紀エヴァンゲリオン』アナログの旧劇版からデジタル新劇版での変貌

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 ここのところの日テレでエヴァンゲリオン97年劇場版と、2007年以降の新劇場版がやってますね。

 今更なんですが、97年から10年スパン開いて、その間にアナログ制作からデジタル製作へとアニメ制作パラダイムは変貌。ジャンルアニメ自体の構造はそんなに変わんないんだけど、表現力の幅は莫大に広まっています。

 90年代アナログ時代から2000年代デジタル時代をジャンプした数少ないシリーズであるエヴァはどう変貌したのでしょうか? 書き捨ててるうちにトホホなオチへと突入します…

 1997 アナログ TV版-EOE

 

 

 旧劇場版、アナログによる作画、そして撮影。TV版の話も含めると、ウルトラマンウルトラセブン実相寺昭雄引用のロングショットや逆光ショットや市川崑引用の明朝体タイポグラフィ挿入などの切れ味の鋭さはやはり類を見ないです。演出の切れ味は、当時の資金はじめリソースが無い中、どの話に制作リソースを注力し、作画枚数を抑える中でいかに効果を上げるか?というために発達されたと見ます。 

 止め絵やバンクを多用しながら、映像のクオリティを保つために、異常なほどモノローグやセリフが多い。そうした脚本部分は作り手の意志や精神が介在しやすいのもあり、当時の監督のセリフの切れも半端じゃないです。*1

  旧劇は今見ても作品世界のルールやロジックを映像やテキストが遥かに超えていてヤバいです。もう誰が「人類が第18番目の使徒リリンであり~」なんて作品世界のロジック、種明かしの部分を真面目に聞くんだろうと思いましたよ。どう見てもそういう内容じゃない。監督本人の退行や精神分裂的な感触が90年代の超技術でアニメートされている。退行の果てに、人類を皆殺しにし自己愛(カヲルというシンジの理想とする像)と胎内回帰(オカンのクローンで始原のコピーのレイ)をする映像が、あの時の気分なんですね。第一話冒頭でシンジが無意識に見てしまうレイの幻影を、旧劇の最後にもう一度見てしまうのもいいすね。

  それどころかアニメという表現、そもそもの観客とアニメという関係性さえ失望や憤りの中で逸脱していく。過去のシーンの羅列はマジックで引き裂くように書き殴られやがて実写(便宜的な現実)に突入し映画館の観客を写し、ミサト・レイ・アスカの主演声優たちが群衆の中に映り「そこには僕がいない」と呟くシークエンスは凄まじいです。東浩紀山本寛90年代エヴァとゴダールをダブらせたくなる気持ちも一瞬分からなくはないです。*2いかんですね。庵野の実写映画期はゴダールの「ジガ・ヴェルトフ集団」期みたいなものとか言い出したらぼくもいよいよヤバいですね。そんなわけねえだろ!実写映画は実写映画!アニメはアニメ!一時でもこんなことを考えていたことは忘れてください。

 2007- デジタル 新劇場版シリーズ

 さて、デジタル製作による新エヴァ。動画をふんだんに使えないことにより、作品内世界のロジックを大幅に超える陰鬱な内面描写が旧版だったのに対して、新版はデジタルの鮮やかな画面・豊かな動画で作品内世界のロジックをどうあれまとめる方向にあります(「Q」であっても 脚本ぐちゃぐちゃでも)。やけに決めのシーンで虹が差すシーン見る気がします。

  デジタルだと動画セルはそのまんまだとすんごいテッカテカになって、何の味わいも無くなるため上からグラデーションの処理をかけることで画面に深みをかけていく形です。高解像で絵的な情報量が増えたデジタル映像になった代わりに、ノイジーなアナログ旧版の市川崑タイポグラフィの切れ味や、実相寺カットの不穏さも大分失われていると見ます。動画で魅せることが大きくなったため、旧版の特徴である印象的な静止カットの中でのセリフやモノローグも減少し、セリフ回しや演出の切れも落ちてます。(「翼をください」は・・・)

  代わりに質が増大したのは、エヴァンゲリオンはじめメカにあたるアクションは基本3DCGを多用・トゥーンシェードでリミテッドアニメに合わせたコマ落としなどなどで表現し、奥行きと空間を感じるダイナミックなカットを突き詰めたアクティブ&アドバンスドな映像作りです。

 アナログ時代のエッセンスを拡張するデジタルというオーソドックスな造りであり、新海京アニシャフト湯浅中村的なデジタルによってもたらされた利点を前面に生かしてる感じはそこまで無いです。

 デジタル時代にアヴァンギャルド表現はより花開いたと見てますが、新版はそれを避けてます。というか、エヴァのアナログ時代後半のアヴァンギャルドの理由は単純に資金や時間リソースが無くなったからあれで行くしかなかった、説の側です

  総じて90年代アナログ制作で、金と時間リソースが無かった分、動画枚数は抑えられ、ほとんどカメラも動かせない中を凝ったカットのつなぎで見せることやタイポグラフィをそのまま画面に出すというアバンギャルドにして内面描写に注力する試みと対照的に、十分なリソースによって作られてる2000年代デジタル製作の新劇場版は単純に動画そのものの快楽がデカいです。

 が、デジタル化によって高解像度のアクション動画の快楽度でかなり観れるようになったエヴァの変化とは……かなりしょうもないオチになります。

アナログからデジタル移行でヒロインの比重が変わった

 

  金と時間がなく、あるのは監督の狂気だけ、といったアナログから、金も時間リソースも確保され、豊かな美術、カメラワークを持つデジタルの新版の変化とは!?…なんというかヒロインの印象が大幅に変わってる感じあります。

 アナログ時代、リソースが絞られるため実質ほとんど動かない動画、荒い美術の映像は、奇想のカットとモノローグによるアヴァンギャルド&ミニマルスタイルは作品世界すら否定し内面へと落ち込んでいく陰鬱や退行の方向を加速させ、それがレイやカヲルに艶を与えていたと見ます。

 対して動画やカメラの躍動、3DCGによるアクションの比重が増え、細密な描写の美術、どうあれ静止画でモノローグという表現から解き放たれてる新版のアクティブ&アドバンスドスタイルは、動画ですべてを見せているためレイとカヲルより、ガンガン率先して動くアスカやマリのほうに華を与えているように見えます。

 「破」でレイがポカポカどうたら言って、シンジくんに死に物狂いで助けられ抱きすくめられていても、「Q」であれだけカヲルがシンジくんとともにピアノの連弾と、その後に13号機に共に搭乗し、悲劇の中死に至っても、技術と資金が限られノイズ交じりだったアナログ時代のタナトスと胎内回帰の艶っぽさは欠片も出ておりません。結局、多様な表現可能なデジタル映像のカタストロフの中縦横無尽に動きまくるアスカとマリのタッグチームにすべて持ってかれてます。

  なのでもう映像的には旧エヴァの続編というよりかは実質アクティブデザインのトップをねらえ」あたりのさらに続編みたいなんですよ。二人乗りしてるし。8+2だし。*3特に「Q」は序・破でのTV版のカットをリメイクするというのから解き放たれ、全編新カットで出来てるんですが、コクピット内でのアスカやらの作画も広角の効いたすげえ最近の「キルラキル」トリガーとかに通じるアニメートで動いてたりするわけで、作画表現的に悲壮感と離れるあたりも印象変更デカいです。

 LCLの中で溶けたり、静止画やバンクに重ねられるモノローグで語られる自己否定と退行の果てに、皆殺しにしながら胎内回帰したいというメタファーがすべて消えております。そのせいでレイとカヲルに艶が無くなり、豊富な動画や3DCGのエヴァで動くアスカとマリの方が映画内で生き生きしてるように映る。そこんとこがTV&旧劇と新劇の凄まじい違いと感じますね。  

  アナログからデジタルに移行して、アニメートの艶が大幅に変わったでしょうが、エヴァのデジタル後のデザインの変化は、アナログ時代は時間も資金も無くなってジャンルを崩壊させる演出の果てに、最後は監督の自己破壊と退行、胎内回帰に入る裸踊りしかなくなったけど、リソースが豊富になったことで動画が豊富になりヒロインの魅力のパワーバランスが変わったあたりに出てる気がする、と流し見してて思いますね。観たアニメは忘れましょう。でも培ったアナログからの技術が、デジタルの解像へと変わるのを見つめつつ、次回でお会いしましょう。

 

 

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*1:エヴァとかウテナとか押井守あたりがとくにやっていた、バンクを多用したり、静止画のカットの連続に膨大に声優のセリフを当てるという、今シャフトとかあの辺がやってる手法、製作資金や作画の作業リソースが限られる中いかに画面を持たせ、表現するか?という中発展した日本リミテッドアニメ特有の暗黒の演出技術の一つだと思います

 エヴァの後の「彼氏彼女の事情」では電線や信号といった街の光景などに合わせて主人公の膨大なモノローグが展開。日常風景と主人公の内面描写がセットになって発生する情景。リミテッドアニメ文芸というべきこの技巧は新海誠のスタイルにまでかなり影響あると見ます

*2:

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 ジャン・リュック・ゴダールというフランスの有名な監督さんは、映画批評家出身であり60年代に金のないフランス映画でアメリカB級犯罪映画の構造を使いながら文学や絵画・過去の映画アーカイヴの引用を行いまくったり、観客と映画の関係をブラすメタな要素をぶち込みまくり映画の可能性を試していた。

 ところがその後、パリ5月革命という社会的な変革と呼応し、”劇映画では現実を映せない”なんつってカンヌ映画祭を崩壊に追い込んだりする。その後同時代の世界で同時多発的に起きた各地の革命のドキュメントを行う”現実を映す”政治映画に突入し、映像と音響、虚構や現実、観客と映画の関係もぐちゃぐちゃになる異形の映画を作り続けていく。

 まあつまり、

映画批評家つうか膨大な知識を持つオタクが作り手に回る

すべての映画の要素は過去に出尽くしてしまいオリジナルはないと気づき、あらゆるジャンルの過去アーカイヴの引用で物を作る

「小難しい哲学書だとか心理学とか引用するけど、実はまともに読んでない

「すげえ革新的なんだけど、やがて劇映画に失望する

「その後、現実に関わるための作品作りをする。劇映画の文法をすべて解体し、音と映像の関係性などカオスな作風となる」

「いろいろ理屈臭いけど、ほんとのところは女との恋愛関係上手くいってないという苦しみがデカい

本人には実質何もない。でも巧みな引用、切れ味のある言説のおかげでみんな信奉したり、あるいは唾を吐きかけるくらいに嫌ったりする」

というあたりでジャンルを懐疑し、揺らいでるとこを東浩紀とかヤマカンは共通点に見たんじゃないのという話。ちなみに傍目から見たところ、庵野秀明ゴダールにはビタイチ興味はないと思われる。接点はゴダール(はじめヌーヴェルバーグ一派)の影響を受けたウルトラセブン実相寺昭雄経由くらいじゃないですか。(押井守がいっちゃん興味持ってると思われる)…まあくそみたいな批評が何かを意味づけたがる与太話だ、忘れてください

*3:そもそも監督のひとりがトップをねらえ!2」「フリクリ」の鶴巻和哉監督だしな