17.5歳のセックスか戦争を知ったガキのモード

葛西祝によるアニメーションについてのテキスト

思い出のマーニー 冒頭で先生が杏奈の絵を見てあげてたら映画すぐ終われたじゃねえか!

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思い出のマーニー 制作:スタジオジブリ 監督:米林宏昌 視聴スタッフロールの最後まで

 

 日本最大のエスタブリッシュト・スタジオジブリ作品。宮崎駿引退後ということででいよいよ制作の方針が大きく変わるようで、「マーニー」は長編最後の作品と言われていますが…

 

 

 

 物語は杏奈のモノローグから始まります。ジブリネタなら映画が始まってすぐに登場人物なりメカなりが動画しアクションするのと別の、内省的な方向性です。

 

 杏奈は養子であり親子関係が上手くいかない。そのこともあって心を閉ざしてしまい、周りともうまくいかない。ある時に親戚の家へ療養に行くのですが、その町でも上手くいかない。そんな中で、海の向こうに立つ屋敷に住む金髪の少女・マーニーと出会います。誰とも触れ合うことが出来ず孤立する杏奈にとって、はじめてのささやかな交流。ですが、マーニーは・・・

  米林監督作品、動画が背景からやけに浮くのはなぜ?

 これまでもジブリ作品は宮崎駿高畑勲監督と別に監督を務めた作品は多くありますが、米林監督に限っては映像に違和感があります。それは人物から動物、乗り物、潮の流れといった動画にあたる部分が背景と浮いてしまうことによる違和感です。

 これは宮崎五朗監督作品ですらも薄かったことで、「アリエッティ」に続いて「マーニー」もなにか人物をはじめ動画が背景との色調と乖離してしまう違和感がすごくあります。

 そうした乖離はなぜ生まれるのか?スタジオジブリに対して何をいまさらな話になるのですが、デジタル製作主体によって動画の色調が明確に鮮やかになることでノイズが無くなり、動画が鮮やかになりすぎてしまうことで浮くということです。

コクリコ坂から」とかは浮いてないよな・・・

 

 今はデジタル当たり前だから、深夜アニメ界隈なんかは基本の動画と背景の上に画面の色調設定を変えるとか、さらに上のレイヤーにグラデーションなどの処理をかけるなどで色調を統一させた画面作りを当たり前に行っています。しかしジブリはそれはやりません。基本的にはアナログ制作による動画作りはで、背景に合わせた配色が基本です。

 しかし米林監督作品、なにかこの辺のグリップは弱いです。種田陽平と組み、背景美術へのという今回はさらに人物や動画への配色バランスは重要だったと思いますが・・・

 今の今更アナログーデジタル問題

 アナログ制作-デジタル制作へと移行したスタジオは、おおよそアナログ制作時にかかる作業的コストの削減や効率化で制作していたと見ますが、結果動画が鮮やかになり過ぎて、異様なほどに浮いてしまうという現象に遭遇してると思います。最近では、ずっとアナログで制作してきたサザエさんがついにデジタルに移行した時の違和感みたいな。

 

 ジブリはかなり早い段階でデジタル製作を行っているはずだし、デジタル以降(もののけ姫以降)のジブリのある種の味気無さってのも通過してきたはずだし、ジブリもデジタルならではの強みや画面作りも行ってきたはずです。

 気にかかるのは「人間は何を食べてきたか」というNHKドキュメンタリーに大いに共感するほどに宮崎・高畑が突き詰めていた食べ物の描写、これをノルマのように大きく描いているのですが、これが先述してきた配色の問題もあってあまり美味しそうに感じないです。目玉焼きを半分に切って食べるってラピュタパンのオマージュのようなシーンもあるんですが、黄身を切った時の中身の溢れ方そうじゃねえだろ!といいますか。スタッフロールの最後に映るトマトまでもあんまり新鮮そうに感じません。「トトロ」であんな美味しそうにキュウリを食べてたのに!

 

 ここでひどい仮説を立てますが、米満監督は本質的に宮崎・高畑らが作ってきたようなジブリのフォームを信じてないんじゃないか?という気がします。では本質はなにかというと・・

 

 自然や食べ物がどうこうより電線やビールが美味しく美しい感覚

 「原作の児童文学がそうだから」で済まされそうなところですが、演出や脚本の段階でやっぱ作ってるサイドの意識は反映されるでしょう。宮崎・高畑の動画の快感よりもなにか内省的なとこにウェイトある気がします。”主人公の女の子が街へ行ったりお仕事に放り込まれたりで成長するなりして戻ってくる”って筋自体は同じ「千と千尋」とか「魔女の宅急便」とは演出方向違いますよね。

 

 デジタル製作基本、そして内省と孤立、そこで出会う少女との交流・・・この辺の要素に最も近く、上手くやってるのは新海誠まどマギとかあの辺です。

 

 奇しくも米林監督、1973年生まれで年齢は新海誠と同じです。杏奈という人物の描写や切り込み方は「言の葉の庭」におけるユキノの造形に重なりますし、つらい現実と違う海の向こうを超えた屋敷でだけ、杏奈とマーニーの二人で会うというのも、雨の日の新宿御苑公園みたいないささか現実の気分から離れた場で会うタカオとユキノの二人みたいな構図を思い出します。

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 しかし、新海誠のほうはもう完全に自然どうこうより電線や踏切の方が美しく、丁寧に作られた食事をおいしそうに食べるよりも、全く味がわからなくなった舌で乱雑にビールを飲む方が美的だって皮膚感覚を、フルデジタルによる美術や作画によって遺憾なく表現しています。

 で、米林監督も本質はそれなんじゃねえのと。ホントは食事とかどうでもよくて、皮膚感覚的にデジタルによるグラデーションを強烈にした色調で無機質な街並みを情景にするこっちの可能性があるけど、強固なジブリメソッドに無理に合わせてることで、画面から演出、脚本に至るまで数々の要素がどこかで浮いているのではないかと思います。*1

 

 実際「マーニー」が映画的な躍動をみせるのは内省的な二人の関係です。内省へと潜っていく海の向こうの屋敷に向かうボートの上で、夕日が海を鮮やかに染める中で杏奈とマーニーがボートを漕ぐこと。やがて杏奈がマーニーの正体に気付き、雨が降り、潮が満ち、荒れはじめる海のを超えて屋敷の向こう、窓のそばのマーニーと大声で言葉を交わします。雨が引きやがて光が差し、その向こうでマーニーは微笑み、杏奈の鬱屈は消えていきます。やがて、マーニーの正体を知ることが自分のルーツであることに気付き、幕を閉じます。マーニーというのは他者(あっやべ!危険ワードつかっちゃった!)ではなく杏奈の内面や自身の立ち位置を知るためのきっかけなんですね。

 

 思い出のマーニーはジブリの中でもホントはかなり現日本アニメトレンド的な要素を抱えていながら、デジタルの利点を生かした情感を引き出すかのようにグラデーションを出した色調や映像にドライブすることなく、培われたジブリメソッドとは相いれない(皮膚感覚で信じていない)ことで、乖離があります。

 

 関係ないですがマーニーは美少女というか、なぜだか冨樫義博レベルE」のバカ王子に似ていると思いました。

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それから杏奈が短冊のことで揉めて「普通ってなに!?」といきり立つシーンはなぜだか内田春菊の「幻想の普通少女」を思い出しました。

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この映画の杏奈も成長したらでたらめにヤバい人になる可能性は少なくなく・・・いやいや、与太話は忘れましょう。でも培った技術とモードはそのままに、次回にお会いしましょう。しばらくクラシック路線です。

 

 

 

 

 

 

 

*1:劇場映画のアニメはみんな田舎礼賛で自然礼賛みたいな文部科学省コードに乗っかってることが多々ですが、ほんとはひとかけらもそんなの信じてないだろってのは多いです ももへの手紙とか