17.5歳のセックスか戦争を知ったガキのモード

葛西祝によるアニメーションについてのテキスト

弐瓶勉の転換点の作品「シドニアの騎士」の作家性はロボットアニメ最悪時代には効く

Ads

シドニアの騎士 第一話 視聴フル

 

 ロボットネタのアニメ製作会社のオリジナルと漫画原作のアニメ化したのものとの差は、作品のスタートが大きな合議制によって作られたものであるかないか、です。何らかの原作からのアニメは最初から原作の読者層からある程度のパイが見込めるのに対し、事前の客層が無いオリジナルがコストの高いロボットネタのオリジナルなどやる場合、嫌でも安全パイに走ります。

 

 それは設定か。キャラクターか。ストーリーラインか。最初から玩具展開などを見込んだコンテンツの展開にするのか。今やアニメ製作サイドのオリジナルはことごとく滑り、サンライズを見てもロボットネタの合議的な部分でも強い作品打ち出すってにはタイバニやらラブライブの方に移っていると見ています。そういえばロボットネタでトピックスとなったパトレイバーエヴァンゲリオンは最初から多数の会社による合議的な展開で作られてはいないといいます。

 

 ほぼ作家と雑誌編集部という規模で出来上がる、漫画原作によるロボットネタはまだしもオリジナルアニメ特有の不自由さからは解き放たれている気がします。弐瓶勉作品で遂にTVアニメ化となった*1シドニアの騎士」は、弐瓶作品のベクシンスキーの絵画やエンキ・ビラルなどのバンドデシネ的な初期からの作風から転換し、絵の描写を抑えアニメ的な描線、画面作りを中心とした作品です。その作風の変化は極めてこれまでの弐瓶作品と比べてアニメ的でフラットな雰囲気へと変わりました。

 

 ですが、今回アニメ版はむしろこれまでの弐瓶作品のムードに忠実であるように思えます。3DCG作画による、2Dセルアニメではないこの表現ならではの異質感、そして独特の空想建築の風景、などなど。

 

 結果、ロボットネタの中で特徴的なのは本作のほとんどが映像と風景に集約されていることです。脚本以上にビジュアルや画が先行することにより、言葉やセリフで世界観や状況を観客に説明するのではなく、絵や映像、動画で完結する。それはわかりづらさも生みますが、問答無用の空気感を生みます。

 

こうした空気感を重視していると言うために、オープニングテーマの奇妙な楽曲構成から劇中の音楽に至るまでの映像とのハーモニーは今季中屈指であると感じました。

 

ロボットネタはいちいちメカニックやら世界観やらを事細かに退屈に説明してナンボなものがそこいらに転がっていますが、今作は弐瓶作品の作家性とそこに感応したポリゴンピクチュアズによって唯一な作品となっています。

 

だがしかしです。肝心のロボのメカニックデザインがあまりにも旧来的。作品全体を貫く空気感の美しさで見えてませんが、一旦「このデザインはどうかな…」ということを気にし出すと、そもそもの世界観でさえも特別真新しい高度なデザインを行っているわけではないことに気付きます。

 

そしてやはりロボットネタの失望感にしばし感情が戻ります。デジタル製作時代、そして3DCGでまるでセルアニメのように、というところにまで技術の進んだ現在、その力はむしろロボットネタというものの構造の水準を前進させることなく、なにか情景や空気感というものの描写、ということの方面の洗練の方面にて発揮されているように思えます。キャプテンアースもあれはその枠のように捉えてます。

 

それは新海誠から京アニ的日常の情景から、シャフトのデザインまみれのカットの連続、湯浅中村作品のアヴァンギャルド感や「かぐや姫の物語」までの方にウェイトがあって、ロボットアニメといったジャンルそのものの構造は行き詰まってるからその空気や雰囲気、情感を重視した方向へクリエイティビティをシフトしているというべきでしょうか。それは音楽にて音響派といった流れが流行ったみたいに。日常系&アヴァンギャルドが上で、ロボットネタはそれに包括される形ですね。

 

とはいえ、その空気感の強さ一点によって洒脱な瞬間は紛れもない作品なのは確かです。盗んだ米はおにぎりにしましょう。でも培ったパンやカレーはそのままに、次の日捨てましょう。

  

 

シドニアの騎士 1 (アフタヌーンKC)

シドニアの騎士 1 (アフタヌーンKC)

 

 

 

*1:これまでもBLAME!のアニメ化もされましたが、本格的な展開が今回ではないでしょうか