17.5歳のセックスか戦争を知ったガキのモード

葛西祝によるアニメーションについてのテキスト

「Wake Up, Girls! 」山本寛監督はじめ、アニメに絶望して反抗することで生まれる作家性の感想

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 「Wake Up, Girls! 」は一体どうなんでしょうか?第3回目は山本寛監督を中心に、アニメのモードから反発した作家の現在とは?の雑記です。

 

 日本のアニメ監督の作家性とはなんでしょうか?職業監督としての優れた仕事を行い日々モードを形作っている監督と逆に、作家性の強い監督はまずまぎれもなくモードから反発、時に嫌悪感さえ露わにします。

 

 押井守は当時の日常系で萌えの最先端だったろう「うる星やつら」で永遠の日常の夢を繰りかえすと皮肉りました。庵野秀明エヴァが終わった前後のあたり、そこかしこにアニメーションに対して失望や絶望の言葉を当時のインタビューなどで語っていた覚えがあります。原恵一もアニメへの嫌悪感を露わにした発言をしたといいます。

 

 全員かつてのアニメのモードの最前線に躍り出たのちに、一時アニメから離れ、一時実写映画に進出していきました。そして山本寛もまた「ハルヒ」で当時モードの最前線にいった後に紆余曲折経て実写映画「私の優しくない先輩」に着手、そしてアニメ業界への失望の発言と上記の作家監督と近似した経歴を辿っています。今回は「アニメのモードから何故反発するのか?そして反発して何を作るのか?」の話になります。

 

 

 

 日本アニメのモードとしての強さは桜trickとか今一番の萌えキャラデザインを挙げるまでもなく特筆しているといえます。

 

 その強さは「社会性が見えない」とか「大人が存在しない」それどころか「男も存在しないようにする」という典型的なアニメへの偏見からのつっこみにみられるように、意図して極めて狭い範囲にクリエィティビティを意図して絞っているから生まれているのではないでしょうか。

 

 作り手側はたぶん社会や大人を描けないのではなく、描くと萌えとかの焦点がぼやけてモードが弱くなるから描かないだけ(と、いうことを信じたい。本気で作り手の全てが本気で狭いクリエイティビティのままではないはず。だよな?!)ではないでしょうか?

 

 アートから文学、だなんて半ば権威を持ち出すジャンルを挙げずとも、隣接している映画から漫画に至ってもまだクリエイティビティの幅は遥かに広いです。しかし、広すぎるクリエイティビティは半ば文脈が分散したり、高度化したりすることで直観的に理解できないためモードとしての力が弱まるのが常です。セックスを知ったガキだけの世界にすることでモードとしての瞬発力が発揮されるのです。

 

 近年はラノベアニメゲームサイクルによってモードが形作られているとみえ、自分はそれが当ブログタイトルである14歳から21歳くらいまでのセックスと戦争を知ったガキの範囲までのクリエイティビティに絞っていることで発生していると思っています。

 

 当然、クリエイティビティの狭い世界というのはある時よりもの凄く窮屈になります。先述の監督たちが優れた仕事をした後にアニメから離れ、失望した発言さえ残し実写映画に向かうなどの理由の底にはそのクリエイティビティの狭さを元にしていることへの反発がポイントにあると見ています。

 

 問題はモードへの反抗を行った後に、何を描くかでしょう。それは日本アニメのモードへの脱構築かもしれない。いやモードの力を強めるために切り捨ててきたリアリズムかもしれない。それとも優れた実写映画のクリエイティビティをひっぱってくることかもしれない。

 

 押井守は実写映画発のリアリズム手法を元に現実と虚構がどうこうを主旋律としました。庵野秀明エヴァのトラウマと戯れるように実写でのハンディカメラによる「ラブ&ポップ」から、自らのルーツの永井豪&特撮回帰プラス実写でリミテッドアニメ演出の実験やった「キューティーハニー」など逡巡の末にエヴァ新劇場版に復帰しました。原恵一は昭和の名監督・木下恵介への敬愛を元に、「カラフル」から木下恵介の実話を基にした実写「はじまりのみち」までを製作していきました。

 

 
 
 自分はいよいよクリエイティビティの狭め方で生むモードも極端になっている現在、モードに反発することで山本寛監督が何を作るかというのは大変な興味がありました。ポストモダン哲学者・東浩紀と組んだ「フラクタル」はある意味では仮想の浅田彰押井守が組んだTVアニメというくらい事前にはかなりの期待を持っていました。ですが、1話の時点であとは観た皆さんとほぼ大差ない感想と相成ってしまいました。

 

 現行のアイドルアニメのモードに反抗したと見える「Wake Up, Girls!」はリアリズム路線だといいます。クリエイティビティの狭いこのジャンルにおけるリアリズムというのは怖い言葉です。監督本人の「何が現実的なのか」「それは美しいことなのか汚いことなのか」という視座が毎週公開されているとも見えます。

 

 自分は当ブログの前身の記事でどうあれ「日本アニメの大人・子供問題」という低いレイヤーでラノベアニメゲーム界隈を結論付けるように読めてしまう失態を犯し、散々な反応を頂いてしまいましたが、「フラクタル」のコンセプトから本作を眺めて思うのは一つの散々な仮説です。当の作り手自体も本当にクリエイティビティの狭さを大人子供問題レベルで止まっており、わざと社会や現実など描かないようにして

モードの強さを出していたのではなく、本当に描けないのではないか、ということです。

 

 

 2ちゃんねるで批評されるシーン、震災後の東北舞台、主人公のデザインと圧倒的に違う半リアル調のモブのキャラクターという配分などなど、セックスと戦争を知ったガキのモードに浸かりきった人間がほんの少しクリエイティビティを広げようとした際の現実というものはなぜこんな中途半端な付け焼刃のように「現実的にした」というアリバイ作り程度なのでしょうか?

 そこには現実の屈辱によって主人公が犯される劣情に満ちています。皆様この記事をスマホでご覧になっているでしょうか?ちょっと他のサイトなどに行くと広告に女子高生が電車に乗っている時に、圧倒的に絵柄が醜悪なリアルな描写を為された中年サラリーマンに後ろに付かれるというアダルト広告が不快に乗っかっているのを目にしますが、結果的に「WUG!」のリアリティレベルはあのレベルです。

 

 山本寛監督ばっか笑っていればいいわけでもなくて、現実というものを社会的問題を引用してくる程度といった極めて限定された範囲でしか捉えてないダメさは神山健治あたりも一緒です。神山版「攻殻機動隊」映画版の現代社会問題引用の無残さは凄まじかったです。未見で申し訳ないですが、「東のエデン」も設定の時点でキツいです。

 

 彼らを代表にアニメでちょっとでもクリエイティビティを広げようとして何らかのリアリズムを導入しようと現実に目を向けます。ところがその現実というのは既に「メディアによって社会問題として、記号化されたレベルのもの」というのと「すでに世間によって偏見をもたれ類型化したラノベアニメゲーム界隈への苦言」という屈辱の2択、あと他に何があるんだよというアニメ前の世界設定のレベルでしかないです。

 

 なにより「WUG!」でリアルというのが即、大嘘だとわかるのは単純にアイドルにブスが一人もいないことです。現実のアイドルはAKBからももクロモーニング娘など眺めても一見相当キツいとされるビジュアルの方々が前線を張っています。ところがプロデュースサイドから実際の彼女らの芸能によってボロクソ言われること込みでオリジナリティを持つというか、タフに磨かれるのと観るこっちが慣れたというのが寄り合ってか、いい顔に見えていくというのがあります。Pefumeにはゴリラがいるとか、前田敦子浜田雅功が女装してるものとかボロクソでしたが現在皆さんかなりいい顔になっています。

 

 そういやブスやマヌケのエッセンスを上手く今のキャラデザインに落とし込んで魅力的にするとは「キルラキル」が一番うまくやってるのかもしれません。ヒロインのひとりとか「男組」とか「ゴルゴ13」眉毛!「WUG!」はトリガーがリメイク、ということで観たアニメは忘れましょう、でも培った技術とモードはそのままに、来季でお会いしましょう。