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葛西祝によるアニメーションについてのテキスト

悲劇は20年かけて浮かび上がる・原田浩監督作品『都市投影劇画 ホライズンブルー』

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『都市投影劇画 ホライズンブルー』

『ホライズンブルー』は2020年に観たことで、むしろ何が描かれているかがよくわかった。もし作中と同じ90年代に完成し、観ていたとしたら、きっと残酷な感想を抱いただろう。あの時代は人間が限界にある状況を「そういうものだ」と見切ったふうに、現実を浅はかに見ていたころだから。

原田浩監督は商業でも、ましてや短編アートアニメにもカテゴライズしきれない。映画の制作・配給・上映、そのすべてをほぼ一人で行い、社会から切り離された人々の見世物小屋へと変えてしまう。詳しくは2014年に書いた特集を読んでほしい。その時「2019年に完成が予定」となっていたのが『ホライズンブルー』だ。

『ホライズンブルー』は近藤ようこの漫画を原作としている。1990年代から制作が始まり、20年を超える年月をかけて完成した。シナリオの大筋はこうだ。母親となったばかりの春子が、自分の赤ちゃんに手をあげてしまう。だけどその理由を言葉にできない。春子の心に浮かび上がるのは、家族から目を向けられてこなかった自らの子供時代だった。

こうまで特集していたのに、去年2019年は仕事に忙殺されており、公開に気づかなかった。年が明けた2020年の1月、上映会が行われると聞いて慌てて見に行った。それが阿佐ヶ谷のネオ書房で行われた上映である。

 小さな書店の中で

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ネオ書房は、評論家の切通理作氏が店主を務める書店で、1Kほどの小さなお店だ。昭和の漫画や特撮、中には切通氏が監督した映画のポストカードも見当たる。『ホライズンブルー』が上映される今回、小さな店内に10数人ほどの観客が詰めかけ、ゆっくりと映画を観る形になった。

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原田監督も上映に立ち会い、監督自身が銅鑼を鳴らすパフォーマンスで映画は始まった。普通の映画上映に留まらせない監督のコンセプトは、小さな書店での上映とシナジーがあったといえるだろう。

家庭崩壊から垣間見える歴史

『ホライズンブルー』は近藤ようこの原作では、主人公の春子ひとりの問題として描かれている。全体を通して子供を傷つけてしまう春子の心理描写と家族関係に注力していた。しかし作者自身は、物語の展開に納得がいったといい難かったという。あとがきにて「『虐待した母親と、虐待した子供は、どうしたら両方救われるか』という答えを出したかった」と望みながら、「私は明確な答えを出せなかった」と語っている。

原作が描かれた1989年。まだ児童虐待も認知されていない時代で、なによりも家族が社会的な立場から判断された頃だ。母親個人の問題は放置された。作中でも夫の牧田は、春子が子供を虐待する理由がわからず、「女の人ってみんな子供が好きでしょ。かわいいはずでしょ。」「どうしてこんなことになったんですか。ぼくには理解できないですよ」と感じている。典型的な社会的な意味でしか見られない人間だった。

原作では春子の母親が自分を追い詰め、そして子供に暴力をふるってしまう心理描写に終始したが、原田浩の映画では大きく意味が変わっている。もっとも大きな違いは、人間の心を追い詰める社会背景が描かれることだ。

近藤ようこの漫画では、春子が親や妹についての憂鬱なモノローグの合間に花が描かれたのに対し、原田浩の映画では、団地の一室で春子が子供の頬を叩く窓の向こうでビルが屹立するのが見える。自分が苦しむ環境の、ずっと奥に社会が立ちふさがることを示している。

それは短編『二度と目覚めぬ子守唄』を押し広げたものだ。あの作品は “出っ歯”の少年が延々と同級生に暴力を受けるというだけではなく、昔からの社会が書き替えられていく情景が描かれていた。

技法も引き継がれている。手描きのアニメーションの他に実写映像を織り交ぜる演出がそうだ。実写は決して質のいい映像ではないものの、観客に作品世界が現実世界と地続きである感覚を意識させる。春子の苦しむアニメーションと並行して、どこかの街で起こった諍いの声、住宅街で起きたことなどの実写映像が挿入される。

ここでの実写は社会背景を暗示させる効果が高い。実写を現実世界そのものとして、アニメと対置させるのは庵野秀明押井守らがやるようなそれに近いものがあるが、『ホライズンブルー』においては主人公の社会背景として直結している差がある。

つまり春子の苦しみの向こう側に、彼女の人間性をないがしろにする社会が徐々に浮かび上がってくると言っていい。近藤ようこがおそらく「明確な答えを出せなかった」原作の先を描いている。春子がカウンセリングに通うシークエンスがそうだ。医者が第三者として「そうした親とは離れてもいいんだ」と指摘することや、同じような境遇にいる人たちとの対話が描かれており、どのように自分を回復させていくかが具体的になっている。

虐待の背景から浮かび上がる日本の現代史

シンプルな見立てになるが、原田監督作品は追い詰められた人を描く過程から日本の現代史をも浮かび上がらせるかのようだ。『二度と目覚めぬ子守唄』では昭和の高度経済成長の風景が終わり、80年代に入っていく情景が垣間見える。『ホライズンブルー』はさらにその続きを描いているように見えた。90年代からいままでに壊れてきたものが映っている。

終盤カウンセリングを通じて回復した春子は、冷たくされてきた母に直接問いただす。なぜ自分を虐げてきたのか。なにがそうさせたのか。母親から語れるのは、同じく自分も両親から虐げてきたことだった。

圧巻なのはここからだ。春子の母は戦時下で子供のころを過ごしたこともあり、思い出のシーンに戦中の実写映像が挿入される。戦時下は、より自分自身の意志なんて見られていなかったころだ。その当時の社会が誰かを苦しめる環境だったことが、時を経た現代、春子が苦しむところまで直結していることを示唆している。『ホライズンブルー』の映画後半、春子の苦しみは個人的なものだったはずが、歴史的なところにまでつながっていたことが発覚するダイナミズムがある。

自分が「2020年に観たことで、むしろ何が描かれているかがよくわかった」のは、日本の現代史上でいかに社会的なものがほとんどの価値を覆い、自分自身の感情や問題というのがないものとして扱われてきたことであった。本作の制作が開始された90年代では「そういうものだ」と露悪的に扱われたし、その後も社会と、感情や問題は加味されなかった。

だが現在こそ(新型コロナウィルス下もあり)社会で起きていることが戦時下のアナロジーで評価されることが少なくなく、それを批判する言葉も、考え方も目立つようになった。いまならその感情や問題がよく見えるから、この映画で描かれていることが良く見えるのだ。

原田監督はいかにして『ホライズンブルー』を作り続けたか

上映後、少しだけ原田監督へお話をうかがう機会を得た。

「原作を読んだ時、これは自分のことだと思った。自分が書かれている、他人事だとは思えなくなり、頭から離れなくなった」それがアニメ化しようという、もっともな理由だと原田監督は答えた。

24年の歳月もの制作期間がかけられた理由には、商業アニメーションでの仕事をしながらだったこともそうだが、加齢による自身の体力の低下が関係したという。さらに経済的な問題として、2008年に起きたリーマンショックにより仕事が大きく減少したことも影響したそうだ。

長いあいだ作ることで、初期の構想から変わってしまったことはなかったか?とうかがうと、「なかったです」とはっきりと答えてくれた。音声の録音は制作段階の最初に終わっていて、主に原画の製作に時間が割かれていた。1995年から、毎年少しずつ撮影していたという。

なにか日本の現代史みたいな側面もあった、ということを伝えると、いくつかのエピソードには原田監督自身のエピソードが描かれているという。たとえば春子の母親が戦中で子供時代を送っていたことは、原田氏の母の話をそのまま使ったそうだ。「母親が戦争体験者なんですけど、時代は違っても暴力を受けたり。その取材をそのまま入れたんです」

「ほかの取材もかなりそのまま使っています」と原田氏は答える。春子がカウンセリングを受けるシークエンスも、「私自身が(カウンセリングの)当事者だったんです」という。作中、同じようにカウンセリングを受ける人々も本当に原田氏自身が見てきたものを描いているそうだ。

破滅的な終わり方の多い原田作品の中でも、『ホライズンブルー』は春子自身が回復してゆく後半も含め、どこかで救いがある終わり方に見える。「ラストは原作通りですね。でも結局原作でも、どうなるかわからないとということで一応終わっていて。一瞬ハッピーエンド的になっているかもしれないですけど、そうじゃないかもしれないと残しています」という。

原田監督は現在、『座敷牢』(こちらも90年代から制作が続いている)の制作に注力するため、今後『ホライズンブルー』の上映は未定という。なので、このテキストをはじめYouTubeにアップロードされている公式映像の断片でしか本編を伝えられない。

本作は上映会場自体も作品として重要であり、単体で評価しきれるものではないからだ。アンダーグラウンド演劇の意匠ももちろんだが、自省的でありながら社会に開かれた描き方だからこそ、現場で観ることに意味があると思う。

だけどもしも今後、上映する機会があれば自分も手伝えないだろうかと考えている。カルトでも、サブカルチャーでもなく、いま誰にでも関わる問題を描いた映画だから。