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 社会から外れる人を切り捨てる文法

すでに大きな話題になっているが、先の事件はどんなに他人に口汚くとも、自分が実際に暴行や殺傷されることがあるという当然のことを誰もが思い知ったことだと思う。自分もそう。舐めていた。もちろんこの事件が被害に遭われた方が直接、加害した方を罵倒した、中傷したから今回の事件になったという認識ではない。直接罵倒しあったりしているならまだいい。ことはもっと残酷な方法で他人を切り捨てていることである。

なにより思い知らされたのは別のことだった。ここ何年かで染みついてしまっていることに、現行の社会から外れる(または、外れかかっている)人を切り捨てる文法があまりにも強く発達していることだ。そして自分もまたその文法に少なくなく染まっている。

たとえば今回の事件の加害者を形容するのに無敵の人という言葉が何度も見られた。この言葉はひろゆき氏が社会的に失うものが何もなくなった人間は刑事罰を受けることに何のリスクも持たない、だから極端な犯罪を行うことにためらいがないというブログの記事が元になっているとのことだ。

この言葉は周到に他人を切り捨てる意味に満ち、同時に今回のようにリスクがはっきりとした事件が発生し、なお自分に何も起こることがないと思っている危機感のない言葉だ。冷笑や軽蔑によって社会から外れる人を静かに追い詰める。そして冷笑や軽蔑に伴うリスクを過小評価している。そしてこの言葉に該当するであろう人物に対してはさらに残酷な記述がある。

罪状の厳罰化よりも、拷問刑など「肉体的苦痛を伴う、死よりも重い刑罰」を検討したり自殺を幇助する施設や制度を検討する、などが考えられる」(ニコニコ大百科より)と、切り捨てた果てに徹底的に消し去る意思さえ示す。冷笑の果てにどんな視点に陥っているかが端的に示されている。社会から外れる人に対し、人間として相手を捉えることを放棄している。いや、田房永子氏の漫画にもあったようにたいていは自分自身ですらも人間扱いしていないということか。

https://news.yahoo.co.jp/byline/masakiikegami/20180602-00085743/

奇しくも近年、同じく社会から外れた人間による事件に引きこもりによるこども園の襲撃事件があった。上のリンク先の池上正樹氏の取材によれば、事件を起こした青年は逮捕されたあと「この拘置所に来て、初めて人間らしい扱いをされたように思います」と語ったという。

この頃はこの言葉のことをよく考える。最初に触れた社会といえる学校が彼を人間扱いせず、さらに両親もどうしたらいいかわからない。もはやこの状況に対し人間として解釈しきれない。子供が3歳を超えると両親は生まれたての人間としての子供の評価から、社会的位置としての評価が混ざりこんでくる。保育園などに関わることで他人との比較が始まるから、子供そのものから社会的な位置として視点が入り込む。その過程でたとえ血縁関係があろうとも子供個人を人間としてのみ見ることが難しくなっていくのではないか、とよく思う。

 

今回の犯行の動機と目されているのはまさにそうした冷笑や軽蔑による追い詰めという。

同時に相対化も社会から外れかかっている人を切り捨てる文法の一種だ。「AがやっているといってもBも変わりない。どちらもどちらだ」よく見かける文法だろう。しかしそこにはAとBが「どちらもどちら」といえるほど対称的な関係ではないことがほとんどだ。A側がマジョリティでB側がマイノリティで社会での条件も違う。たいていが非対称であるにも関わらず、対称だとさも平等にものを観ているという態度を取ることで発言者は自分の立場をさもまともであるかのように見せた。

相対化は楽に当事者としての意識を棚に上げながら、発言者を冷静で、平等な立場に見せる。しかしこの言い方も周到に社会から外れる人や社会から追い詰められる立場の人を直截的ではない形で切り捨てる意味合いでしかない。

いま社会から外れる(または外れかけている)人を切り捨てる文法があまりにも強く浸透している。だがそれはすでにリスクのある態度でしかない。冷笑に刃を突き立てることになんの 今回の加害した方は株式会社はてなを当初襲撃することを書いていた。

この文章は社会的地位や資産の高低や強弱にかかわらず、社会から外れる人という言葉でまとめている。地位や資産を持たない人を社会的弱者にあたるのだろうが、あくまでそれは社会から外れた人になりやすいリスクが高い層ということにすぎない。現実には高所得者であれ何らかの地位を持つ人であれ、何らかの形で外れたとしたら、そこでその人自身を人間として見なくなる。 

いったいいつから切り捨てる文法が常態になったのかはわからないが、これが物事を捉える思考の多くを占めていることのリスクがいよいよ顕在化していると思う。というのも、これまでの社会の慣習から考えれば社会から外れる可能性のある層というのは拡大しつつあるから。その時でも、自らを当事者と思わず、周到にその人々を切り捨てる文法を残すべきなのか。