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葛西祝によるアニメーションについてのテキスト

いま「ゲド戦記」を見るということ

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金曜ロードショーで久しぶりに「ゲド戦記」をみました。多分10何年ぶりくらいに再見するんですが、いま見ると逆に目を離せない緊張感があることに驚きました。

もちろん、公開当時から言われた微妙さに対する皮肉ではないですよ。ひとえに「他人から依頼されて作る、ものすごく個人的作品」というほとんど例外的にいびつな構造をもっているからです。

 

すでに2000年代の頭から「宮崎駿の跡を誰が継ぐのか」という疑問は少なくなくあったと思います。いまでこそジブリ米林宏昌細田守、片淵須直、そして新海誠、(ぼくだけ言ってますがスタジオコロリドの石田と新井)らがそれぞれ比較されたりしています。しかし2006年当時、おそらくたったひとりで真っ向からこの疑問を引き受けたのが宮崎吾郎監督だったと思います。

しかもジブリ新間寿宮戸優光いや榊原信行たるプロデューサーの鈴木敏夫氏は最初からその構図を持ち込もうとした。いわば、宮崎吾郎監督のプライベートな感覚がコンセプト的に放り込まれている構造になっている点が、2006年までのジブリを考えれば例外的だと思います。

つまり、人から依頼されて製作する超ビッグバジェットの個人的作品。作家が自らで自らのために自らのことを描くことは珍しいことではないですが、宮崎吾郎をとりまく環境や、当時のジブリの状況から逆算されて企画された本作の特殊性はそこにあります。

人から言われて作る、自主制作アニメという歪な作品なんですよ。やっぱり作中でテルーの歌を歌うシークエンスはやりたい気持ちはわかる。でもどう処理していいかすごく戸惑ってる手つきがある。(プロフェショナル化した新海誠の「君の名は。」で前前前世が流れるシーンを入れ替わりシーンのダイジェストにしたのと比較すると明らかです)でも、学生やアマチュアだからこそうっかり入り込んでしまう自意識が面白くもある。

 

ほかの全ての完成度が低くとも、アレンというキャラクターがまさに監督本人の状況や心情を強く反映する緊張感があるんです。宮崎駿の絵柄でありながら、やはり駿作品の男性主人公(って、少ないんですけども)たちが絶対に見せない表情をみせたり、主人公の自己がまったく安定していなかったりする。宮崎吾郎監督は「現代の若者を描こうとした」と客観的に描くことに努めたとのですが、自己の固まらないアレンのキャラクターに彼の当時の立場や感性がまったく反映されていないとは思いにくいのです。

いま「ゲド戦記」を見る意味はこうです。本作公開後に宮崎駿監督の引退が現実的になったとき*1、つぎに後継者と目された作品たちが監督の個人性を押し出した売り出され方をされているにもかかわらず、その個人性が見えなかった結果を考えると、宮崎吾郎監督の個人性が見えた長編であることに価値はあるのではないでしょうか。

細田守作品や、米林監督作品があれだけテーマ性を打ち出していても関わらずなにも感じられず、だからといってすでに素人でもないわけで監督の個人性というものも入り込んでいるとも言えない空虚な作品を考えると、いかに「ゲド戦記」に込められた宮崎吾郎監督の個人性が例外的であるかという点が面白いと思いますね。観たアニメは忘れましょう。それから培った技術とモードも投げ捨てて、次回にお会いしましょう。

 

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 参考:『ゲド戦記』なぜ“父殺し”をしたのか?作品を読み解く3つのポイント

 

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*1: 引退撤回を発表しましたが、黒澤明が「まあだだよ」作るような現役から退いた立ち位置には変わりないと思います