17.5歳のセックスか戦争を知ったガキのモード

葛西祝によるアニメーションについてのテキスト

基本無料が当たり前だからこそアニメ批評が根付かない理由がわかる(さらにもう一回追記)

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ぼくの考えでは、アニメ批評がいまなぜ低調かといえば、知識があるひとがいないとか情熱があるひとがいないとか以前に、そもそもアニメ批評は、読者の(読者の、です。書き手の、ではありません)質があまりに悪すぎて、いま批評を志す人間にとってコストが高いわりにリターンが少ないからです。具体的に言えば、一生懸命なにか考えて書いても、ちょっとした名前のミスとかなんとかで鬼の首でも取ったように非難する、そしてそれを「見識」だとカンチガイしている読者が多すぎるからです(これは、山本さんも同じことを「妄想ノオト」の出張版で書いていますね)。だから、ほかのジャンルについても批評が書けるひとは、もはやアニメについて批評を書かなくなっている。(中略)そうやって、アニメについてしか書けないひと、語らないひとばかりが、アニメ批評を占有していくことになる。

したがって、もし今後、みなさんがアニメについておもしろい「批評」を読みたいと思うのなら、言いかえれば、多角的なジャンルについて批評が書ける才能をアニメについての批評にひきずりこんでいきたいと思うのならば、まずはこの状況を変えたほうがよい(中略)アニメ批評の読者が育っていないことこそが、問題なのです。

東浩紀「渦状言論」2008年のweb.archiveより

 

フラクタルコンビの 山本寛さんや東浩紀さんに関しては僕も国内商業アニメ批評としてもどうだかなあ…と思うことは多いです。ですが、彼らが長らく危惧してるこのジャンルにおける淀川長治さんだとか町山智浩さんだとかを求めてたりする意見だとか、なんでこんなに批評を書いても客層のうまくいかないのかなあ…という憤りに関しては近いことをよく思います。今代表的なところだと氷川竜介氏や藤津亮太氏が挙げられると思うんですが、良い仕事が多いこともわかるんですが、どうも抜けが悪い印象はあります。

でもこれってもしかしたら単純で、基本無料だからではないかなあと思います。基本無料という見方は主にビデオゲームですけども、TVやネットだって基本無料。消費者が買い切りで作品と対峙する前提ではない。「アニメ批評の読者が育たない」のも単純に基本無料コンテンツの消費者層の民度の限界という気がしています。

(2018年1月8日、「アニメ批評がもし必要だとして、その理由」追加しました)

 

 

 

「基本無料」。ソーシャルゲームの広がりやPCなどでのF2P(Free to Play) から浸透し、当初はドリランドだとか稚拙な内容でした。が、やがてゲームによっては据え置きのゲーム機にも近いクオリティの作品も出てきましたし、今や買い切りのゲームの一部にも基本無料ゲームが生み出した課金システムが導入されています。好き嫌いに関わらず、現在、世界全体のビデオゲーム業界が運営される上で重要な仕組みであるのに違いありません。

しかし、基本無料の登場でぼくが気になったのは作品性そのものをどう捉えることができるのか、ということでした。旧来の据え置きゲーム機の買い切りみたいに作品そのものを掘り下げて批評するみたいなことはできるのか。少なくとも、パッケージとしてまとまった作品として、これまでの文学やら映画やらのようなアプローチで批評するというのは無理が出てくるのを感じていました。

まあビデオゲームにおける淀川も町山はもっといないんですけども*1 少なくとも、基本無料がこんなにオーソドックスになる以前では安くはない金額を払い、買い切りの作品に触れるという慣習はあると思います。どんな形であれ、批評が少なくなく受け入れられる土壌はあるのでは、と思います。

 

さて国内の商業アニメなんですが、ビデオゲームの基本無料と照らし合わせるならばTVやネットで1話ずつの放映を視聴するのは基本無料。ハマってDVD・BDを買うなりグッズを買うなりするのを課金しているといえるのではないでしょうか。無課金でも楽しんでいる人もいるけど、重課金してる人とはどっかで意識の違いがある…みたいのも似てると言いますか。

ここで買い切りが前提である劇場公開になるとやっぱ違うと思うんですよ。そこに批評家の出番もありますし、その批評を読む読者も少なくはないと思います。

ビデオゲームで買い切りの作品を主に遊んでいる人と基本無料のソーシャルゲームを遊んでいる人とはズレが起きているように、ANIMEは基本無料なんで、買い切りである劇場公開作品から広くanimationとか映画として捉えてる側からするとやっぱり前提が違うからズレます。「なんでアニメファンには批評が通じないんだ」つってもしょうがないし、アニメファンからしても作品論的に来られてもかなり戸惑ってるなというのもよく見かけます。

山本寛さんもずーっと観客が育ってないとか書いてるわけですけど、育たないのはもう基本無料の消費者の限界ですよ。評価してもらう観客を求めるならもうクラウドファンディング&買い切りで観客が前もってコストを支払う劇場公開版の世界でやったほうがいい、なんだかんだで「薄暮」の方向は正しいと思いますよ。監督の生活に無知な状態で言うのもなんですが、可能なら徹底してインディペンデントでやっていったらな、と思います。「この世界の片隅に」がもし無料のTVアニメでワンクール放映されていたとしたら、絶対に今日の評価になってないですからね。

   

アニメ批評がもし必要だとして、その理由

こんな風に大それた話になっていますが、ことは単純で製作されるアニメのクオリティの高さの現実に観客が後押ししていないのがまいったなというだけのことです。

放映されているアニメの少なくない作品が映画館で上映したとしても遜色ない、劇場版クラスのクオリティになってるんですよ。また、このブログでたびたび取り上げてる『ローリングガールズ』など『フリクリ』『京騒戯画』みたいな、ややメタな形で手描きアニメの可能性を追っている作品などかなり豊饒だったりします。(こんなこと言って結局書けてない僕が言うのもなんですが、2017年の秋は『宝石の国』『クジラの子らは砂上で歌う』『URAHARA』などに『ラブライブサンシャイン2期』などが加わるという作品のクオリティの高さ的にも非常に質のいいシーズンだったといえます)

ところがそれが大した評価をうけていないし、不思議なもので人文ベースアニメ批評だと”ヒットした作品をへんな目線で語る”ことが多いので、実際のアニメ見てる人の肌感覚といささかズレた文になることが少なくないんです。

アニメ業界はもつのかよ、みたいな業界内部の暗い話にはみんな飛びつくんです。でも一方でクオリティの高い作品がでてるけど、意外に無いものにされる。それをフォローする役割としてアニメ批評が機能すればいいんじゃねえかなあと思いますね。

 基本無料の批評が読まれる層の限界、を考えたときに亡くなったとある人の再評価

それにしても基本無料で批評がおもしろく読まれる限界ってどこでしょうね。

なんだかんだで基本無料メディアの最大ケースはTVです。で、もちろんそれを真剣に批評するその中でも最大の批評家といえるのがやっぱりナンシー関。たぶんTVネット、アニメやゲーム、全ての基本無料メディアに対する批評最大の例では。*2

「ナンシー関」の画像検索結果

 

ナンシー関さんが一貫してネタにしていたのは「この人はどう見られたいのか」というけったいな自意識についてなんですけど 、その中でも彼女は買い切りの映画に関してはすごい距離置いてる発言してるんですよね。その理由は「映画怖いわ。映画を語る人が怖い。」みたいな。買い切りの格調高い文化で批評する人に漂う自意識について引いてる、みたいなの映画以外でも言及してたような記憶あります。

 

ナンシー関さん没後はインターネットが当たり前になり、冷笑的で皮肉めいた視線があんまりにも溢れかえりすぎて、えせナンシー的な見方てはてなでバズったりするくらいでいいから、むしろ肯定的に見ていくてれびのスキマこと戸部田誠さんが上がってきたのかな~とも思います。

少なくとも基本無料たるアニメには、淀川や町山、ましてや蓮実を上げるよりもナンシー関がいたらな、というほうが近い気しますよ。でもアニメ批評のナンシー関てめっちゃやだな。マイルドにてれびのスキマっぽいひとが…ってそれ氷川竜介さんや藤津亮太さんだしな。ここまで読んでお察しのとおり基本無料に対しての批評はこんな感じに無意味なギャグになるんですよ。読んだ書き散らしは忘れましょう。でも培った知識や嫌がらせはそのままに、次回にお会いしましょう。

 

 

 

 id:miruna >おすすめ検索ワード:「馬鹿 批判 自己紹介」「よく見える鏡」「自己評価 低い」

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*1:今現在、表だったメディアでは。個人的には何名か、彼らに比肩する批評家やライター、ブロガーを知っている。

*2:ちなみにナンシー関もアニメ・声優関連のオタクネタはちょくちょく噛んでいたりする。「声優グランプリ」を取り上げて椎名へきるのことやら三石琴乃に関して書いてた記憶があるし、「エヴァンゲリオンよりも川島なお美だ」みたいな形容もあったり。存命ならば現在の芸能界について何を書いていただろうか、とはファンが今でもいう言葉だけど、ラブライブ初代声優陣の顔は消しゴムに彫られてた可能性ある思います。あともちろん、山本寛東浩紀も。