17.5歳のセックスか戦争を知ったガキのモード

今季のアニメーションの1話だけを観て今のモード(形態の流行)を全て決める最悪のアニメレビュー

山本寛作品が凄いのはすべての作品が処女作だから

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 Wake Up, Girls!新章 2017年TVアニメ放送

 

WUG 新章 視聴フル

「WUG」の続編が別の監督の手にわたってしまい、前作と実質的に別物になってしまいました。白いグラデーションのレイヤーをかけた画面、ダンスはセルルック3DCGと、一言で言えば「ラブライブ」化。これ、初代が必死で差別化しようと避けてたデザインですね。それより新章で軌道修正しようとキャラデザが行き過ぎた結果サガノヘルマーみたいになってて怖いですよ。作品外の乱闘含めるとWUG!新章、ほんとサガノヘルマー作品みたい。精神に来る。

しかしこんな山本寛監督にとって厳しいプロセスでも、逆に山本寛の持つほんとうの作家性を際立たせることになっているように思えます。山本寛作品でなによりも凄いことは、全ての作品が高校や大学に在学中の映研の学生の撮る処女作の映画の煌きを持っていることです。しかも皮肉なことに、常に大手商業アニメ業界と反発するゆえにその煌きが守られているのです。

 

すでに40代を超えながら処女作の持っているみずみずしさ、という形容よりも学生が初めて作った作品特有の全能感や破綻というものが魅力的になっている作家というのは、アニメ以外の作家全体を見渡してもいない。たいていの監督は優れた作家的な監督から職人的な監督に至るまで、大なり小なり業界の慣例にぶつかったうえで今日も監督業を行っています。

学生時代に映研だった人、いやアニメでも文芸やってて何かもの作ってたならなんでもいいです。だいたい大手商業の業界の慣例やら保守性みたいなものを仮想敵にしていた経験はないでしょうか。もしくは、仮想敵にした発言をしていた同級生はひとりはいなかったでしょうか。ぼくも昔よく批判しましたよ。スクウェアとか少年ジャンプとか。

そういう奴が一番ものを作らないという話ならバカにしやすくて話はわかりやすいんですけども、ところが案外ばっちり作品作っちゃう人も少なくもないんです。で、わりとそういう考えのまま先にいっちゃうんです。でも大手商業業界っていうのは、ものづくりやっててちょっと意識も高い身でいるとどこかで「保守的でつまらないことをやっててダメ!未来が開けない!」とかいいながらも実際に向かい合うと良い意味でも悪い意味でもそういうことじゃなかったなってやっぱりなるんですよ。尖ってる作家でも、わりと現実を知って以降は良くも悪くも変わっていきますからね。

分岐点にもなるんですよね。学生の自分から才能ある人でも大手商業に進出したとき、現実にいろんな形でぶつかって絶対に一度悩む。そこでプロはやめて趣味の範囲にする人もいるし、慣例を理解しながら業界でやってくようになる人もいるでしょう。なんにせよそうした過程で学生のころに作る映画みたいなみっともなさや破綻した質なんかは消えていきます。これは、どんな形であれプロとしてやっていくなかで技術が向上すると同時に処女作が処女作のきらめきを失っていく過程でもあります。

ところが山本寛は大手商業の慣例や状況を40代を超えた今も批判を続け、おまけにそんな大手商業の生み出すアニメのファンさえも批判しています。映研のサークルの飲み会の席でずっと大手業界全体の方向をファンごと批判したりする意識高い大学生をまだやってるのです。この発言も別にサイコパスでもキチ〇イでもなんでもないですよ。単なる意識高い学生のままなんです。サイコパスに憧れる、平凡を恐れる大学生です。マジのサイコパスは国内のSNSでは相性悪いですから炎上しないんですよ。中二病もいろんな意味で愛されるからそんな炎上しない。意識高い大学生が一番炎上するんです。

 

もっとすごいことはそんなスタンスのまま、大手商業の現実にぶつかって悩むという学祭で処女作作ってた学生がプロになろうとしてぶつかる現実を、なんと未だに繰り返しているかに見えることです。ところが面白いことに、それがポジティブな効果を生み出すことになっているんです。大手商業との衝突によって山本寛監督が事実上映研の学生の意識を保ち続けることになっていて、常にどこかしらに学生の処女作特有のイノセントな感じが漂っているんですよ。

   

彼のクリエイティブはずっと映研の部室の中にあります。ハルヒの「朝比奈ミクルの冒険」なんて映研の作品まんまですし、そもそものハルヒ自体の舞台も、多分に学生の部活のノリになってます。なので彼の資質とハマった。そこで評価されながらもだんだんと大手商業として躍進してゆく京アニから降ろされるというのも出来過ぎてますよ。

 

フラクタル」も「意識が高い映研と哲学科のオタクが組んで、学祭までにジブリを超える映画を一本作るプロジェクトの顛末」として捉えれば、こんなにも煌きをもった作品はないのではないでしょうか(元映研とかアニ研の人で当時それくらいの気持ちで作ったことある人、ご自分の経験とフラクタルの顛末を照らし合わせてみてください)。実写の「私の優しくない先輩」も見逃せません。あれこそ学祭で上映される映画を最高品質にまで仕上げた煌きをもっています。

 

そしてWUGですけど、あれもアニメート、画面構成、脚本、オタク描写の陳腐さなどすべてクオリティに疑問は残る出来なのには違いないんです。しかしなにか残るんですよ。それは綿密な東北のロケやアイドル趣味から起因してるんじゃなくて、映研の自主制作映画が放つ煌きが関係してると思ってます。

なんだかんだで学生の自主制作映画はおおよそ自分たちの生活範囲をロケにするじゃないですか。でもそれはそれでどんなにクソでも自分たちの見知っている場所に別の価値や意味を与えるんですよ。近所のコンビニ脇じゃねえかよ~こう使うのかよ~金かかってねえ~とか茶化しててもあるんですよ。プロフェッショナルだとある意味で完全に現実と切り離した作品世界というものを構築しきってしまう。でも、自主制作の作品世界構築が甘いおかげで、かえって現実のものごとと半端に混ざっちゃうことで起きる妙味が起きる。山本寛監督はたぶんそれを今も信じていると思うんです。

 

そういう学生の自主制作のイノセントな感じがどっかしらにあって、それが東北地方アイドルというのと上手く絡んだ時、意外にも「アイマス」や「ラブライブ」とは全く違う、地元の現実と絡んだゆえの価値を持った作品になったと思います。なんとなくで恐縮ですが、WUGのファンの方もうすうすそのへんの不思議なシナジーに惹かれてるんではないかなとは感じています。それが(どういう経緯で、だれにどんな責任あって起きたのか全く不明ながら)かっぱらわれるというのはちょっと嫌なもんですね。

 

この監督降板問題、twitterで「けものフレンズ」のたつき監督とちょっと比べられてましたけども、ある意味でふたりに共通するのは「クリエイトの根本に自主制作のイノセンス」で一時的にトップに立ったことだとぼくは思ってます。たつき監督も山本監督も、両者の好き嫌いにかかわらず自主制作のもつイノセンスが大手商業の都合にぶっつぶされるという意味で共通してます。

 

山本寛作品の新作「薄暮」はまだどんな映像になるか不明、原案の小説しかわかっていないという状態なんですが、この作品もまた処女作としてのきらめきを持った作品であることをぼくは確信しています。映研の学生が部室で拗らせ続けた全能感の煌き、ところがそのイノセントさが現実の日本の地方を空気とどこかしらで共振して、アニメのクオリティでは語れない別の何かが生まれる可能性が非常に高いです。

 

ぼくは山本寛監督は「水曜どうでしょう」みたいなアプローチのアニメをやると信じられないくらいハマると思ってるんですけども、どうでしょうか。もしくは山下敦弘松江哲明の「山田孝之東京都北区赤羽」のアニメのアプローチみたいなのとか…ぼく個人はそれを願っています。観たアニメは忘れましょう。それから培った技術とモードも投げ捨てて、次回にお会いしましょう。

 

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