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17.5歳のセックスか戦争を知ったガキのモード

今季のアニメーションの1話だけを観て今のモード(形態の流行)を全て決める最悪のアニメレビュー

くそまじめな実写映画的な座りの悪さを、最後に一気にアニメ的な自由さで解き放つ『終末のイゼッタ』

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終末のイゼッタ 制作・亜細亜堂 視聴フル

 

またひとつ現れました。瞬間的に熱しすぐさまに忘れ去られ、次なる瞬間に繋げるための礎です。

 

えー、”実写の第二次世界大戦を題材にした映画的な方法を最上位におきながらも、実際に実写的な重厚さをアニメでやるにはリソースが限られるので、アニメ絵や日本式のアニメートの範囲内でできる限りやる。”という、くそまじめ系です。すいません。なんか思いつかないので前シーズンの『91Days』や『甘々と稲妻』に続いてこの言い回しで書き散らさせていただきます。えー、敬語のふりして誰も敬っていないですね。

 

 90年代初期から中期までの押井守大友克洋、それからうつのみや理らといった作画系などなどざっとおもいかえしても日本の商業アニメ方法を超えた、実写的な重厚さを追おうとしていた時代があり、それは新しかったしアニメの可能性を底上げすると信じられた時代もあったと思います。

 

 しかし時は過ぎ、アニメ制作の技術がデジタル化が主流になるとともに実写的な重厚感はむしろ衰退したとおもいます。個人的に押井・大友両監督のデジタル以降の作風はまったくだめになってしまったと思います。代わりに、たとえば湯浅政明の「マインドゲーム」や高畑勲の「かぐや姫の物語」など、デジタルの利点をつかってコンテの描線そのままを叩き付けるような、よりプリミティブなアニメートを目指していく方向のほうが生き生きとしていた。そう、別に実写的な方法論は数ある方法のうちの一つでしかなかったんですよ。そしていま実写的な重厚感をやるというのは、既存のアニメ的な自由さに対してセーブをかけるような座りの悪さがあるんです。

 

 『終末のイゼッタ』はくそまじめに第二大戦の実写映画的な重厚なカメラワークをとっており、正直なところ映像の可読性は高く、すごく観やすい。だか座りが悪いと感じてしまいます。それは結局のところ、今この時代に実写的な方法論をおこなうということはいまこれだけアニメの自由さが商業でもアート界隈でも見受けられるというのに、それを否定する試みに他ならないからです。

 

 姫がとらわれるシークエンスまで鑑賞していて、彼女が身動きが取れなくなるまでは観ているこちらもがんじがらめになるくらい、この作品の意味を見いだせない時間が続きました。しかし最後の最後、ヒロインが目覚めた瞬間に一転。この作品は拘束具から解き放たれたようにアニメでしか成立しない表現ばらばらになる飛行機からべたなくらいアニメっぽいデザインのヒロインが長身の銃にまたがり空を滑空し、落ちていく姫を受け止める瞬間のカタルシス。それはもはや終わっているアニメの実写の方法論から解き放たれ、アニメならではの自由を取り戻した瞬間のカタルシスです。観たアニメは忘れましょう。でも培った技術とモードはそのままに、次回にお会いしましょう。

 

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