17.5歳のセックスか戦争を知ったガキのモード

今季のアニメーションの1話だけを観て今のモード(形態の流行)を全て決める最悪のアニメレビュー

これまでの作品と完全に逆転してるじゃねえか!『君の名は。』感想 

Ads

f:id:EAbase887:20160906001651p:plain

 

 興行収入がすごいことになっていますね。シンゴジラと並べて語る向きも多いですが、ぼくは「メジャーな規模で公開するが、監督作品をみてきたオタクからすると大規模でえらいことになると不安になる」という意味で2作を見てました。そして実際に観て不安を抱いていたこと自体がチンケだったな、と思うに至るとこまで同じでした。これまでの監督作品と完全に構造が逆転しており、しかもそれで面白かったからです。

普通に主人公の表情が印象に残ってるだけで新鮮 

 まずびっくりするのは過去作品とキャラクターと背景美術のデザイン配分が逆転していることです。シンプルに主人公の瀧くんと三葉ちゃんたちがすごく表情豊かで、家族とも友達とも生き生きと接しているのがやけに新鮮です。なんてことないことなんですが、新海誠作品に限ってはこれまでをひっくり返すほどの出来事です。

 

 というのも、あの過剰なほど色調の鮮やかさと淡さを強調させる背景美術を見せつけるカットの上にモノローグをかぶせることが新海作品の主旋律であり、登場人物たちはそうして生まれた情景のなかに溶け込む存在として描かれてきたからです。「ほしのこえ」から「言の葉の庭」に至るまで、描かれてきた登場人物はほとんどが無表情であり、他人と必要以上に会話することがなく、心の中でだけ饒舌だったひとたちだったはずです。

 

 これは新海作品で美術や色彩設計は監督本人が全ての作品を手掛けているのに対し、登場人物に関しては長らく特定のキャラクターデザイナーが決まっておらず、毎作品変わってしまうことも関係していると思います。アニメにおける監督とキャラデザイナーの関係って、実写映画における監督のヴィジョンを実現する俳優の関係にも近いとも言えます。(庵野秀明貞本義行みたいな。)

 

 ところが新海作品にはそれが無い。それどころかどのキャラクターデザイナーでもあの新海節に塗りつぶされ主人公の顔はさして印象に残らない。ほかの人の感想書き散らしをざっくり見てたら意外にも山本寛監督がこの点を上手く指摘していますね。日常動作こそ丹念に描く一方で登場人物たちの表情は固く、感情移入する対象として描かないアニメートだったと思います。

 

f:id:EAbase887:20160909011054p:plain

秒速5センチメートル』のようにポスターからして美術を推し、人物は溶け込む構成。

あまりに強力でどんな絵柄のキャラデザも印象が薄まるのだった。

 

 新海誠作品は長編アニメで必要であろう正統な演技や性格付けといったキャラクターへの描写をすべて捨て去り、あの背景美術に特化することによって情景に自意識を溶け込ました主人公のモノローグを中核に置きました。それは90年代の「パトレイバー2」から「エヴァンゲリオン」や「彼氏彼女の事情」、「少女革命ウテナ」などがの作画枚数を絞りながら登場人物の内面を演出する手法を極端にしたものと思っています。

  

    このデザイン構成がひっくり返る転機はおそらくcmの短編「z会 クロスロード」でしょう。ここで初めて「心が叫びたがってるんだ。」の田中将賀がキャラクターデザインを担当。例によって新海節の色彩設計が画面を覆います。が、キャラクターたちの表情や動きに比重をかけた画面になっています。

 

 田中デザインは今作でも続投し、作画監督に安藤雅司が付きました。このことから画面で主人公たちを生かす構成に変えたと思います。加えて背景美術や色彩設定は前作まで過剰さを抑え、透過光が人物の顔まで覆ってしまうことは封印し、ちょっと味のある風景程度にセーブしています。結果、瀧くんと三葉ちゃんが入れ替わる生活の中で、ムカついてお互いの顔に落書きするみたいな、やはり過去にないキャラクターそのものが印象深いシーンがいくつも生まれています。

 

f:id:EAbase887:20160909011753p:plain

不思議なもんで男女入れ替わり設定のおかげか、後半の三葉ちゃんに入れ替わっている時の瀧くんのシークエンスほど、新海作品で男らしいシーンもないのでした

 

 これまで淡い映像を作る一方、主人公が自発的に動き、物事を終結させていくと言うドラマティックな脚本構成に長らく至らないことも無関係ではありません。主人公の男は喪失感とかいって実質的に何もせず、自意識の中にいる。しかしその自意識こそがもっとも淡く美しいものである。その後ろ向きな全能感。しかしキャラクターデザインとアニメートが中心となった構成に転向したことでそうではなくなりました。それは脚本構成にも表れています。

 

脚本構成はド素人でもあった新海作品のシナリオの変遷

 じつは脚本構成上において新海誠的な手法と言うのは、はっきりいってド素人の小説家書きや脚本書きが毎年どこかに応募してくる作品のひとつの傾向らしいです。つまり、「日常のなかで疲れている主人公が出てきてまったく起伏のない日常描写と内面描写が続く。主人公は自発的に動かず全く変わらないまま、唐突に終わる」。この傾向に気付いたのは映画の脚本を修正し、忠告するスクリプトドクターという職業についている三宅隆太氏です。

 

 三宅氏は素人の陥るこの傾向を窓辺で悩む主人公がやたら描写されることから「窓辺系」と名付けていました*1。つまり脚本構成からしたらまっさきに修正が入る部分を新海誠作品はかなり長い期間放置したままここまで作品を作ってきた、それどころか評価さえ上昇していくというのは、単純にまともに技術(キャラクター構築&シナリオ展開)を覚えなくてもケンカ(背景美術&モノローグ)で勝ってしまうボブサップみたいな地力ゆえでしょう。

 

 しかし徐々に自意識の中で全能感を発揮しているという構成から撤退しようとしていきます。宮崎駿を特に意識した「星を追う子ども」ではジュブナイルに挑戦したのもそういうことだと思っています。ところが、そのジャンルではマジで主人公が自発的に動く脚本ができなければまともに機能しないために破綻をきたしてしまいました。

 

 「言の葉の庭」では一見回帰雨の中の新宿御苑をまるで聖域のように描く背景美術が極まり、キャラクターの輪郭線すら消失し、溶け込むかのような描写を見るにこれまで以上に自意識に溶け込み、主人公たちは何もしないのではないか…と予感させました。ところがこのあたりから脚本構成が巧みになっていきました。わかりやすいのは主人公たちそれぞれが自ら動き、物事を解決していくことです。

 脚本で真っ先に指摘されるのは主人公は受け身ではだめで自らアクションしていくことです。物語の始まりと終わりで主人公たちは何か変わらなければ意味が無いのです。自らを変えていこうとするというあまりにベタなシナリオなんですが、これまでの地力とも相まって過去にない完成度となっています。それはラストの雨の中を走り出すシークエンスのカタルシスに現れていると思います*2

 

f:id:EAbase887:20160906220933p:plain

普通にカメオ出演を果たすユキノ先生。声優も花澤香菜

 タカオくんに突き動かされ走り出したユキノ先生は『君の名は。』で瀧くんの高校の国語の授業にて登場し、主人公たち自身が動き、事態の解決のために死に物狂いで走り出す流れにパスをつなぐのです。

 

そうして構成が逆転した結果

 キャラクターを立て、彼らがアクションしていく脚本を構成していく。長編アニメーションを作るにあたって他がやっているあたりまえのことをあたりまえにやったともいえるんですが、もし同じ内容であったとしても他がつくったとすれば空疎な内容にしかならなかったとも思います。そうはならなかったのもこれまでに培ってきたテーマが大きいです。

 もうすでに上がっているいろんな書き散らしで言われているように、これほどあたりまえなアニメ映画の構成をとっていても根本で描かれていることはさして変わらない。決して出会うことのない男の子と女の子。失われる予感。そんなんばっか描いてきたんですが、ここでそれらを払拭してしまうキャラクターとシナリオを得た瞬間、全てが反転しました。

 

 新海作品を通史でみていくと、そんなただひとつのシンプルな点が結局のところ感激してしまうのです。脚本能力もキャラクター構築もないまま、なにもせずなにも変わらぬまま物語が収束していくのを眺めていたのに対し、ここまで死に物狂いで走り、事態を変えようと動いたことはなかったのです。それこそがキャラデザと脚本構成が変わった結果導き出された最大の逆転であり、瀧くんと三葉ちゃんがついに出会う黄昏時のシークエンスはあまりに痛快なのです。ラストチャプターはいつもの新海タイムぽくなってしまって、やはり成人すると男女ともに弱体化しちゃう感じにいろいろ思うとこありましたが、通史で見てる側には10数年ぶんの溜めの末についに出会う結末になったって感じでしたから。

 

 

 生き生きとした主人公たちの活躍は観客にも伝播していました。いったい新海作品で「体が入れ替わって目をさました瞬間におっぱいさわる」の天丼で観客の笑い声が聞こえるなんてことが起きるのを誰が想像したでしょうか。『秒速5センチメートル』を見てる観客のほとんどは新海作品に心酔しようが、あるいは童貞的だと笑っていようがスクリーンに映される無表情でモノローグをし続ける主人公同様、今回エントリにここまでに書き散らされている3954文字ぶんの言葉を無表情で考えながらスクリーンを注視している観客ばかりだったはずです。モノローグの映画に対してモノローグで返す闇鍋の空間でした。今でも思い出すのですが、ぼくの隣の席でスタッフロールが終わり劇場に明かりがついても前の席を注視したまま微動だにしなかったボーダーのシャツの男は確実にそうだったでしょう。だけど今回独特の表情のまま劇場を後にする人々はわずかで、多くの「ほしのこえ」が公開された年に生まれたくらいの男の子や女の子たちが笑ったり泣いたりしながら通り過ぎました。観客席の様子までもが逆転していたのです。こんな映画体験になるとは思っていませんでした。観たアニメは忘れましょう。でも培った技術とモードはそのままに、またお会いしましょう。

 

 

君の名は。(通常盤)

君の名は。(通常盤)

 

 

 

*1:書籍「スクリプトドクターの脚本教室」はド素人の書いてくるシナリオの傾向をそのほか4種類にわけており、その中には「これ…自衛隊が異世界行く「GATE」のことじゃん…」という傾向もあり非常におもしろいのでおすすめ

 

 

スクリプトドクターの脚本教室・初級篇

スクリプトドクターの脚本教室・初級篇

 

 

*2:君の名は。」が公開されたことで作風の転向直前ということで、逆に最高傑作として際立つと思います