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葛西祝によるアニメーションについてのテキスト

小説家は時にアニメを殺すか?舞城王太郎監督のアニメの怪異

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日本アニメ(ーター)見本市

ハンマーヘッド 視聴フル 監督・舞城王太郎

 

 舞城王太郎が関わったアニメーションや特撮を観ると、ある思いに駆られます。それは小説とアニメーションという表現の差についてです。

 

 小説のアニメ化、なんてレベルならばライトノベルから一般文芸まで広く行われており、そこから表現の誤差を測ることとかできるかもしれません。しかし「ハンマーヘッド」のように小説家自身がアニメの監督を(どのレベル関わってるのかは謎ながら)務めると言うケースはまれです。だからこそ通常のラノベがアニメ化されるケース以上に、小説とアニメの間の表現の誤差が刻まれています。あまりよろしくない意味で。

 

 

 

 小説といっても文体によって全然変わってくるんですけど、不思議なもんでアニメ化の時に目立つのは”事実のみを描き、登場人物のモノローグを徹底して排する”というタイプよりも”「僕」や「私」の一人称の語りによるモノローグ”というタイプをかなり見かける気がします。それはライトノベルでありがちな消極的な主人公の語りから、新海誠作品が村上春樹をモデルにしてるところまで直結しています。舞城王太郎作品も、基本一人称による立て続けの語りのタイプです。

 

 しかし、ラノベアニメから新海誠作品が内面のモノローグを多用することで、アニメートに情緒的な余韻を残すのに対し、舞城王太郎の関わったアニメと特撮はそのモノローグによってアニメートの面白さを阻害しているように思います。

 

 舞城王太郎のモノローグがいかに「巨神兵東京に現る」の持っていた”現代の技術で特撮の生々しさを実現していくか”という映像をスポイルし、今作の前田真宏による、内面なんて関係の無いはずのダイナミックなアクションの面白さを無くしてしまうのか?という点において、小説が行う一人称での語りと、ダイナミックなアニメートとの誤差を感じさせます。

 

 

 奇妙なことはもう一つ、舞城王太郎が関わったアニメは基本的にモノローグを必要とせず、アニメート(もしくは映像そのもの)だけで十分成立するタイプであることです。モノローグを使うことで映えるのは、たとえば作画量を少なくし、「パトレイバー2」や「物語シリーズ」のような止めのカットや情景を描くことを基調にしているタイプなのですが、そうではありません。

 

 ところが「巨神兵東京に現る」や今回「ハンマーヘッド」などはその映像だけで十分なはずなのに、全く余計なモノローグがついていることで悪い意味で「小説家が関わっている感じ」があります。同じく監督した「龍の歯医者」の時点では、特にモノローグもないし、スタジオカラーベンチマークテストを観るような面白さはあったんですが…

 

 小説を、単に映像の設計図で捉えるか?それとも映像を生かすためのモノローグとして捉えるか?でアニメの質が変わりますが、舞城王太郎自身が監督を務めた作品はそのあたりのバランスがぐちゃぐちゃです。

 

 一方で、小説家が映像に手を出したい場合、モノローグではなく豊富なアクションやアニメートだけで成立するようなタイプをやりたがるものなのかもしれないなとも思います。舞城王太郎のアニメは小説というジャンルの魅力をまるで生かさないタイプのアニメを作りながら、なおアニメが小説の持つおおきな要素であるモノローグを使い、前田真宏のアニメートの魅力を殺いでしまっているあたりに小説家がアニメ監督をす業の深さを感じます。

 

 みたアニメは忘れましょう。でも培った技術とモードはそのままに、次回にお会いしましょう。

figma 巨神兵東京に現わる 巨神兵

figma 巨神兵東京に現わる 巨神兵