ローリング☆ガールズ 2話&3話 視聴フル
考えてみればヒット作は歴史を振り返れば伏線や積み重ねがあるものなのかもしれません。ヒット自体は予測不能なのでヒットしてから後て気づくみたいな、どうあがいても後出しになるんですが。
「けいおん」はじめ京アニのヒットには実は大昔からの「アルプスの少女ハイジ」くらいまで遡ったキャラクターの演技のアニメート、空気感を感じられる風景、レイアウトの技術の集積があると見ますし、シャフトのヒットも考えてみれば押井守から幾原邦彦あたりの作画枚数を削ったリミテッドアニメを気取った解釈で切りなおす・アニメ外の別ジャンルの演劇だとかアートアニメの手法を持ってくるという流れに沿ったものではないか?と見ます。新海誠にしても、やはり宮崎駿や押井守ら庵野秀明らという前例の上にある気がします。
ヒット作の伏線としてここ30年から20年の間に培われた技術とモードは意外に無関係じゃあないと思います。が、しかしここ2,30年に培われた技術とモードにつながらない、2000年前後に現れたあるアニメのデザインの傾向、これが2015現在までに徐々に勢力を伸ばしながら、意外にどこもそれをうまく評価できていないという歴史の伏線がほとんどないデザインがある気します。そのモードからそろそろなにかヒット作はでるんではないか?と見ます。
そのモードとは何でしょうか?ぼくの観たところ冬のぶっちぎりベスト「ローリングガールズ」はそんな前例のないモードだと見ます。とはいえこの作品がヒットするかというとまったく思わないんですが、これに近いタイプの前例の無いモード、そしてその発生には、実はオタクの多数が嫌がってるらしいあの現代美術家が生み出したヴィジョンが関係してるのではないでしょうか?
「ローリングガールズ」から遡り、「サマーウォーズ」のOZ、「京騒戯画」「ガッチャマンクラウズ」など…これらに共通する、原色をばら撒きながら統一したデザイン的な画面作り。多数のガジェットを無尽蔵にぶちこんだような世界観。不思議に豊富なアニメート。こうした作品が近年少なくなく現れているのですが、もっともはやくそのヴィジョンを提示して見せたのは、じつのところアニメ界ではなくアート界の村上隆&カイカイキキチームではないでしょうか?
村上隆作品は日本アニメ漫画ゲームうんぬんのオタクカルチャーを
アート・デザイン視座で上のレイヤーから再認識させなおした先達じゃないの?
村上隆はそりゃあもうオタクカルチャーから搾取しただの、法外な値段で作品を売りさばく商人だの、膨大な悪評にいとまが無くジェフ・クーンズ*1ともダブらせて語られることも少なくありません。
氏の作品は世界のアート・マーケットに作品を通用させるために、戦後日本で奇形に進歩したと言えるアニメや漫画表現の文脈を西洋から日本の長い長い美術の文脈の中で再構築していくことで諸海外にアタックしていきました。そのあたりは著作や発言などで多く書かれているのですが、多くの批判もありました。
ですが、そこまでに至る拡大の中で、日本のアニメ漫画ラノベゲーム界隈に共通する何らか(クリエイティビティてやつ?)をアート・デザイン視座で再認識・再構成させたことは今になって搾取だとかなんとかの批判を超えてアニメにうっすら還元されてきているのではないでしょうか?
村上隆のヴィジョンのアニメ
細田守のルイ・ヴィトンのCMやシュウウエムラとのコラボPVなど
2001年に村上隆はその戦略の中で数々のアーティストとのコラボを果たしてきました。カニエ・ウェストの「グラデュエーション」のジャケットを担当したことなどが有名ですが、中でもルイ・ヴィトンとのコラボレーションやシュウ・ウエムラとのコラボによって製作されたアニメには、かなりの部分「京騒戯画」から「ガッチャマンクラウズ」そして「ローリングガールズ」に至るデザインや視座のレベルが凝縮されています。
中でも細田守が監督したルイ・ヴィトンのCMはもう、そのまんま。現代型の線画と作画のアニメートの気持ちよさや技術ってのすら、村上作品の視座からすれば日本式のコンテクストの一つとしてデザインされなおしているのです。*2
ヴィトンもシュウ・ウエムラも世界的に展開しているファッションブランド・化粧品ブランドです。ガチガチのアート・デザイン視座のところから日本のアニメラノベゲームのクリエイティビティをポップなものとして再構築してます。
もう一個行きましょう。ちょっと話題になったMファレル・ウィリアムズのMTVです。
ロトスコープで歌うウィリアムズの姿のバックで流れる膨大なまでの原色。アニメ漫画エロゲー、8ビットゲームのガジェットの膨大な洪水。全ての要素をぶち込むことで本質的にキャラクター性やら物語性やらその他の匂いやらを全部無意味にする。で、それゆえに逆にアニメートに尋常でないパワーが乗ってるのです。
ガジェットをぶち込み並べる「意味」から解き放ち「無意味」からすげえパワー出してるデザイン
そう日本のラノベアニメゲーム界隈の持つ要素から一切の物語やら情緒やらその他の一切を切り捨てたうえで、膨大な要素をカオシックに詰め込むこと。その村上隆が見出したであろうヴィジョンは近年特にアニメで頻発してると思います。
「京騒戯画」であるとか「ローリングガールズ」のデザインはおそらくアート・デザイン側からは村上隆の見出した視座、本家アニメサイドからは90年代ガイナックス~鶴巻和哉の「フリクリ」のアニメートなどの両輪に差し挟まれたところから成立してるのではないか?
そして今季に絞って「ローリングガールズ」がぶっちぎりなのは、いまんとこ誰も解決してないまま水面下で動き続けてる日本商業アニメのアート・デザインの視座の最前線の部分になんだかんだで引っかかっているように見えるゆえです。
フリクリ FLCL Blu-ray BOX (PS3再生・日本語音声可) (北米版)
- 出版社/メーカー: FUNIMATION
- メディア: Blu-ray
- 購入: 4人 クリック: 26回
- この商品を含むブログを見る
「意味の無意味」でいっさいの物語だとかキャラクターとかそういうものを省きまくってフラットにすること
村上作品は異常なほど空虚であり、同時代に評価されてる奈良美智の生意気そうな子供を描いたアクリル画やドローイング作品であるとか会田誠のエログロさであるとかは評価や解釈が容易いのに対し、アートサイドはおろか当然搾取先みたいになってるらしいアニメマンガゲーム界隈からも解釈しきれてない感じあります。
このあたりのヒントは氏の卒論「意味の無意味の意味」も関係あるのでしょう。
・美術の「無意味の意味」とは、意味を付与する事によって、延命を図ってきたがゆえに行き止まり的な状況に陥っている美術を、意味から解放し、再びその危うさゆえのパワーをもたらすこと。
・「物語は終わった」と書くことそのものが物語の最たるものであるというパラドクスを抱えつつも、当時の私が目指していたこの“終わり”とはなんであったか。それは、その物語が必然的に受け持たざるを得ない、序文、本文、結末という定められた流れそのものを解体してしまいたい欲望の現れに他ならなかった。(それは映画においての物語の解体の前進がもはや進みようが無いことを思うとき、せめて、時間軸によってそれほど拘束されない美術において、物語のバラバラ死体を見せることしか美術の存在価値がないのだという極私感による。)
・「クリエイションの発言の所在地」
村上隆の発言とか、あとに実写&CGアニメミックスの「めめめのくらげ」を作っていることなども込みでまとめるとホントはアニメ漫画界隈の方に行って物語やらキャラクターやらひっくるめた情緒的な仕事に行きたかったところを断念。そこから一切の物語性や情緒というものから離れ、なお作品を成立させるジャンル、それがアート界隈なんだと見ます。
こうして生まれたモードでのヒットの最有翼はほら、あの作品じゃない?
っつうわけで村上隆が提示したアート・デザインとしてのオタクカルチャーのヴィジョンて毀誉褒貶の末に、なんだかんだで今のアニメデザインに影響がすごくあるのではないか?と思っています。
TVアニメのデジタル製作基本の状態で、様々なグラフィックデザイン手法も取り入れてる中その先のアート・デザインの次のレベルの完成系ってのが無かった。で、早い段階でネクストレベルのデザインをアートにて提示してた村上隆のヴィジョンがなんだかんだでアニメデザインにまで降りてきてる感はあります。モンドリアンの「コンポジション」があとあとファッションデザインなどで引用されていくような流れに近い感じで。*3
2001年のスーパーフラット展から10数年、その間にもアニメのデジタル製作化に伴い、根本的な画面構成や色彩構成の変化がありアート・デザイン的な視座が必要になっていったと思います。80年代90年代は「アニメを実写映画並みの表現に高める、実写映画的なテーマやモチーフを使う」という方向を大友克洋や押井守らが到達させました。しかし、アニメの限界点は実写映画とは別です。
それ以降デザインの命題として、実写映画と別である商業アニメーションの可能性で未開拓になっている点が村上カイカイキキデザインが提示したハイコンテクストにあると見ます。
アニメ制作のデジタル化以降、ロボもアイドルもバイクも何もかもの要素が無意味に並列化みたいな感じになり・実は物語性とかテーマというものはアニメの最重要ポイントではなくむしろパワーをダウンさせちゃう要素なのでは?みたいな。でも短編のMTVならば搭載されているアニメート表現やコンセプトで成立するけど、長編アニメになるとまあどうしても便宜的に脚本術だとかは必要になってしまいますね。
「なにもかもの要素をぶち込むことで、等価で無意味になる。逆にそれがこのモードのアニメの超強力なパワー」ですが、そこんとこのデザインと折り合ったコンセプトによる長編脚本ですね。ということは良いのはSNSを中核に置いた「ガッチャマンクラウズ」あたりなのか?アニメートがけっこうトホホであったんですが…まあいいや!「クラウズ」に「ローリングガールズ」のアニメートあったら確実なんですが、この村上隆発スーパーフラットのモードのヒットの可能性のある作品を投げておきます。
ということで、過去前例にないモードでの覇権アニメ候補は消去法的に「ガッチャマンクラウズ インサイト」で!みんなこの作品けっこう社会学ねたで解釈しがちだけど、京アニ日常モードやシャフトのグラフィックデザインモードに次ぐ歴史が浅く過去の伏線の無い、にもかかわらず水面下で発達してきた村上スーパーフラット系統のモードで大きくヒットを飛ばせる候補じゃないでしょーか。でも「インサイト」はアニメートがんばれ!日テレに子会社化されたタツノコパワーでがんばれ!
ん?そういや覇権アニメの定義って何だ?えーっとなになに?…うわあ、どうでもよかったわ。いいや記事のフックになるしな!観たアニメは忘れられてきたでしょう。だが培われ続ける技術とモードの流れはいつの日にか花を開くでしょう。
*1: キッチュをテーマとした作品を多数作り、ファクトリーによる生産や、アーティストとしてのマスイメージを作るイメージコンサルタントを雇うなどして膨大な値段で作品を売るアーティスト 批評家によって毀誉褒貶が激しい ウィキでもわかるが大体の写真で独特の笑顔を浮かべている。
*2:残念ながら細田守はこのモードを発展させられる可能性がありながら、ジブリ系の劇場アニメみたいなのをつくる安全パイラインになってつまらないと思います。「おおかみこども」とか多分皮膚感覚的にも今のアニメデザイン環境的にも本当のところ母の物語とか作り手は信じてないだろ!
*3:
モンドリアンの1920年代に完成させたコンポジションというアートのヴィジョンは
あとの1960年代、ファッション界にてイヴ・サンローランなどによってたびたび使われるようになる構図、みたいな