こんな嫌がらせの書き散らしを始めた一環でアニメの批評関連を目にするとなにやら一見人文・思想系の文体で綿密な批評っぽく見えるがその実トホホなかんじを覚えるようなものが多い。それらは極端であるにしても、たいていの批評やらのほとんどが作品をテキストの拡張としてしかアクセスしない(できない)せいでそう見えるんだと思う。
日本アニメの解釈は、脚本や原作漫画が声優やBGM、動画が付いてより解釈しやすくなったテキストの拡張というレベルで観るか、きっちり映像で観るかで分かれるが、あんまりにも前者が多すぎ、後者の解釈は作画という一部分に偏りがちな歪さがある。前者の批評の流れを作ったのは何やら思想の地図がどうたらのあの辺で、後者はスターアニメーターどうたらを取り上げるメディアあたりだろうか?
映像の解釈を作画という一面で押し広げたメディアってこの辺かな?
そもそも日本アニメ発展の源流が手塚アニメ・手塚漫画という、”動画よりもストーリーやキャラクターを伝えることが目的・なのでバンクで一枚絵で口パクで動く省力映像でかまわん”というテキスト拡張路線というのも関係あるのだろうか?
設定やらなんやらの背景のテクストではなく、デザインとアニメートそのものの中にアニメの全てがあるし、しかもそれは多様で精微になってると思うのだがそこはあんま語られなかったり口を閉じる。だからまどマギとか批評的には虚渕玄とか脚本家の評価に集中しがちだし、ぜんっぜん絵が動かないしデザイン的に大したことないがテキストが複合化してる程度のウテナとかピンドラにひっかかる。
しかしテキスト批評になるにしても、表のテキストの奥を読むサブテキスト(間テキストって書くべきかな?)まで掘り下げる段階になるとこれがいけない。自分の論旨の都合でサブテキストどころか、表のテキストの事実までゆがめちゃってるやつ。あれはなんなんだってのも凄くある。
それ以上にぶったまげたのはここのエヴァ批評なんかに顕著なのだけど、たとえばフランスの言語学者・構造主義者のソシュールが提唱した「シニフィアンとシニフィエ」という言葉。この用法が完全に間違ってる!これヤバいよ「旧エヴァにあっては綾波レイとは虚構性=人形性のシニフィアンだったはずだ。」シニフィアンってのは「記号」!で、記号的にはアナログのセル画に描かれた絵で、青や白の色彩で構成された人物ってこと!で、それをみて、作品の流れや関係の中で虚構や人形って思うのがシニフィエ「意味内容」ってことだろ!つうか旧エヴァ作中で監督本人が(構造主義的なアプローチがロジックとして正当かどうかはともかく)あれだけアニメの記号性というものをアニメの中で炙り出そうとしてたのはなにも見てなかったってことなのか。
社会・思想学の用語を持ち出しながら、実は意味をまったく分かってないじゃねーか!テキストレベルのアニメ(映像レベルとはちがうよ)てそんなもん、誰でも解釈しやすい糖衣錠みたいなものすら読めてないのに、社会・思想系のをちゃんと読めるはずもないのだった・・・こういうケースも少なくなく、そもそもテキストの解釈すらまともに出来てないという。
映像で解釈できない奴がテキスト批評に行き着くのも地獄だが、その地獄にも階層があってそもそものテキスト自体も読めてないし、権威づけるか何か知らないが哲学・思想用語すら間違ってる可能性が高いという地獄まで様々だ。
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