読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

17.5歳のセックスか戦争を知ったガキのモード

今季のアニメーションの1話だけを観て今のモード(形態の流行)を全て決める最悪のアニメレビュー

新海誠の雨と雪のモード「言の葉の庭」 14-21歳のガキのモードの究極

タイトル個別レビュー
Ads

f:id:EAbase887:20140610155211j:plain

 

言の葉の庭 視聴フル

 

 14-21歳のセックスか戦争を知ったガキのモード。それは僕の偏見と差別に基づくひどい名称ですが、そう言ってもざっと冬と春の2クールの日本アニメを眺めてもその最前線にはなにか美的なフォルムやグルーヴ、それがあると見えました。

 

 それは少年少女-青年たちの日常風景です。主人公たちの生きる日々の現象そのものが作品世界の全て。心象を映すかのような情景。青春の光と影。ささやかな永遠。今や架空戦記を放棄したロボSFでも、女の子が部活やってるポルノも、その中でなにか美的なものを極限まで突き詰めた結果そうした描写に集約されていっているかに見えます。「セレクター・ウィクロス」とか「河合荘」だとか、設定や描写を超えて中心にある美的なグルーヴはそれだと見てます。

 

 新海誠作品は非常に早い段階でそうしたモードを確定していきました。SFも、ロボットアニメのフォームも、少年少女の情感を描くためのフックに過ぎません。しかしフィルモグラフィを重ねるごとにささやかな永遠を表現するためのフックは外れ(いや時にはめちゃくちゃなフックも加味したりの変転の中で)、「言の葉の庭」に至っては極限まで研ぎ澄まされているかに映ります。

 

 新宿の都市風景。電車の中。広大な公園に降る雨。靴職人を目指す15歳のタカオ。心を病み、味覚障害を負った27歳のユキノ。モノローグに乗せたピアノ。公園の屋根の下に雨の日にだけ出会う…

 

  ロボットもSFも解き放たれた「秒速5センチメートル」で完成しつつあった青春の光と影と、日常の情景。それが音楽とモノローグと共に推進するという、新海誠特有の映画のグルーヴの中に、日本アニメの中で極限まで研ぎ澄まされたモードが存在しています。

 

 日常の情景そのものに美を見出す。日本アニメでたとえば劇場レベルでマスに広げようとする場合、14-21歳の範囲を超えてしまいますからアニメとして美的な風景になぜなのか自然風景が美しい、田舎が美しいと言う風な描写の傾向があるように思います。それに対して新海作品は日常で見かける電車・踏切・電線をはじめとした都市風景といった人工の風景に美的なものを見出しているかに見えます。

 

 「言の葉の庭」もこれまでのフィルモグラフィがそうだったように、新宿の風景に美的な瞬間を見出します。ですが、ここで新宿御苑の広大な公園、そこで梅雨の時期に降り注ぐ雨、という半自然(当然公園なんて人工物でありますしこの言い方です)の風景が今回は中核にあります。公園にそびえ立つ木々を中心とする自然の向こうにそびえ立つ高層ビルという構図。降り続ける雨。その光景は、ヒロインであるユキノが少しずつ外を歩いて行けるようにリハビリしていこうとする背景と重なっていきます。

 

 歩けなくなったというユキノのデザインから逆算して、それを支える・助けるドラマの導線を敷くためにタカオのデザインは為されたかに映ります。靴職人という背景はふたりのドラマを動かすための便宜的な気配が強いことが難ですが*1、そうした設定を付加したことで途方もなく官能的なフィルムになっているのは否定しようがありません。

 

 雨の中でいつも会う中で、ユキノはタカオが靴職人を目指していることを知ります。そこでユキノは自分の靴を作ってもらおうと、素足を晒し、タカオの手に触れさせます。足は人体の中でも神経が集中する場所であり、他人に触れられるにはとても敏感な部位です。雨の中、その形とサイズを測るために、指で丁寧になぞるシーンには強い官能が焼き付けられています。

 

 雨、そして水。それのエレメントはエレジーを呼び起こすクリシェとして多用されますが、同時に官能の暗喩としても多用されます。「ローマの休日」でのクライマックス近く、アン王女とジョーが水辺の酒場で追っ手から逃れようとするとき、共に川へと逃れます。追っ手を撒いた時には二人とも全身を川の水に濡らし、そこでキスをします。その次のシーンで普通に着替えたカットに入るのですが、キスから着替えのカットの合間にはこうした逸話もあるくらいです。少女を雨に打たせるというのもあまりにもオーソドックスな官能の表現として女優やアイドルの写真でも中核を為しています。

 

 そして、ウォン・カーウァイのような「情景で逃げてきた」と批判してしまえるくらい脚本ロジックをまとめ上げることが弱い印象のあった新海作品で特筆すべき点に、最後に主人公たちのドラマの動機づけと解決までを収める脚本芸術としての部分を完成していることがあります。

 

 タカオがユキノが何者であるかに気付き、いつもの公園でまた出会います。しかし、そこで強い雨に打たれ、場所を変えユキノのマンションでふたりは話をします。何か繋がれる瞬間を見出しながら、しかしすれ違うどうしようもない瞬間からかタカオはマンションを後にします。だけどふたりともわかっているのです。”歩く練習をしていた”ユキノはなんとそこで、裸足で部屋を飛び出し、走ってタカオを追いかけるのです。豪雨が続く環境の音に合わせて響く音楽。向かい合うふたり。強まる雨の音の中、タカオはユキノに思いのたけをぶつけます。全て、本心と逆の言葉です。だけどふたりともわかっているのです。ユキノとタカオは抱きしめ合います。雨はやみ、日の光が街を覆い始めます。やがて雪が降る季節になれば、ふたりはそれぞれの世界に戻っていきます。

 

 14ー21歳のモードの美的な側面を極限にしたこの作品は少々覚えていましょう。でも培ったモードと技術はそのままに、梅雨があけるころにお会いしましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:大体、靴職人なんて言わない。デザイナーという。余談ながら実際15歳から靴のデザイナーを目指し、その後レディーガガの靴のデザイナーまで勤め上げる方がいるのだが、大マジのデザイナーはずっとクールで情感なんて差し挟む隙が無い人間たちなのだ